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スリープ状態
大学時代、和実と僕は仲が良かったが、はじめはあくまでただの友達だった。和実は僕より身長が低く少しがっちりとしていて、人懐っこくて誰にでもすぐにボディータッチをするような奴だった。中高と運動部に所属していたからか、男同士で身体に触れることに抵抗が無かったのだと思う。
ある日、飲み会で酔った和実が「習は女みたいで可愛い顔してるな」と僕にちょっかいを出してきた時、「和実こそチビで子供みたいで可愛いよ」と僕が答えると、珍しく少しムッとした表情を見せた。僕は咄嗟に和実の頭に手を置いて、撫で撫でしてあげたら、少しの沈黙の後目が合って、2人とも何となく吹き出してしまった。和実は馬鹿にするなと笑ったが、僕はそのまま和実の頬を優しくつねった。その瞬間、甘く胸が疼いた。そこから僕たちは、何でもよく話す間柄になった。あの日の大衆居酒屋のタバコとアルコールと少し混じった誰かの胃液の酸っぱい匂いは、今でも思い出せる。
僕は昔から背の高い年上が好きだったので、先輩や教授にカッコいい人がいないかいつも気にしていたけれど、屈託のない笑顔で僕のパーソナルスペースを容赦なく侵してくる存在に、好みのタイプかどうなかんて関係なく、いつの間にか絆されてしまった。汗の混じった甘酸っぱい和実の匂いに惹かれ、自分のとは違ってゴツゴツと節ばった手に触れられる度、吸い寄せられた。ちょっとボディータッチが多いくらいで好きになってしまうなんて、我ながら恋愛経験ゼロの乙女のようで情けなくもなったが、今まで誰とも付き合ったことがなかったし、カミングアウトもしていなかったのだから無理もないと今は思う。
僕らはみるみるうちに仲良くなっていって、程なくして和実は家によく泊まりに来るようになった。和実が住んでいたのは大学から遠い家賃の安いエリアにある、和実の出身県の学生支援団体が運営する築年数のかなり経過した寮で、風呂トイレ共有の環境だったが、僕の家は大学まで自転車で行ける距離にある新築のマンション(家賃は親が出してくれていた)で、研究とサークル活動で忙しい和実が入り浸るようになるのにそう時間はかからなかった。当たり前のようにシャワーを借りて、自分の家かのようにパンツ一枚でソファーで眠る和実の寝顔を、起こさないように見つめている時、既に自分でも呆れる程恋に落ちていることを実感した。起こさないように電気を消して、窓の外の街灯の灯りに照らされた和実のツンツンと立った髪を、空気の一杯詰まった紙風船に触れるように優しく撫でた。破裂したらこの想いも溢れ出てしまいそうで、何度もゆっくり撫でた。幸せだけど、同時に不幸でもあった。部屋にはノートパソコンのファンの音だけが響いていた。そうしてそのうちファンの音も途切れ、僕が眠ってしまうよりも先にパソコンがスリープ状態になった。
これが実るはずもない恋だということくらい僕はわかっていた。偶然好きになった相手が自分と同じゲイだったなんて都合のいいことは起きない。和実がこんなに無防備な姿を見せてくれているのも、僕がゲイだなんて思ってもいないからだ。それくらいはわかっている。思いを打ち明けたって困らせるだけで何も良い事はない。でも、今のこの感情をもう少しだけ味わっていたい。難しくても、それで終わりにするから。僕は、ノートパソコンのように、このままこの感情もスリープ状態にできたらどれだけ良いかと思った。
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