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改めて思い返せば、酷い人生だったと椿は思う。
山の遠くから、獣の遠吠えが聞こえた。山犬だろうか。生きたまま食われるのは、どれほどの苦痛だろう。
その時も…さて椿は「ありがとう」などと言えるのだろうか。
「ありがとうございます」
口に、してみる。
この言葉は虚勢だ。価値なき者、意味なき自分を認めたくがなかったが故の、見栄だ。
結局、無意味な人生にはなにも残らなかった。ここから先は無残な死体が残るのみだ。
「ありがとう…」
辛くない――辛かった。
苦しくない――苦しかった。
惨めじゃない――惨めだった。
全て裏返し。現実を見ないふりをして、お綺麗な感謝の言葉で誤魔化した。結局椿は、己の無価値さを認めるしかないのだ。かつて蔑んでいた母と同じ。
「…ありがとう」
また、獣の鳴き声。先ほどよりも近い。死が、近い。
このまま死ぬ。意味もないまま死ぬ。無価値なまま死ぬ。
「ありがとう」
…それが、たまらなく許せないと思った。
思えば、椿が出会ってきた者たちは、たとえその結末がどうであれ、皆きちんと行動を起こしていた。自らを幸せになるために。
助松と佳世は吉原を抜け出すために椿を囮にした。扇屋の女将は身の程を忘れた美鶴から、夫を引き離して復讐した。美鶴は扇屋の主を誘惑することで、一時的にも自らの立場を確固たるものにした。
椿の母などは一番酷い。彼女が椿との別れ際に言った「ありがとう」という言葉は、そのまま椿に残されて、まるで呪いのように発現した。己を蔑む娘にこれほど見事な仕返しがあろうか。
対して、椿はなにかしてきただろうか。
これが椿の価値なのだと、言われるがままに売られてきて、美鶴に与えられる物だけを受け取り、女将の迫力に飲まれ、助松と佳世にはいいように利用された。
流されているだけだ。なるほどこれでは、無意味な人生でしかならない。
――それを今更、許せないと思った。…おそすぎるだろうか?
「ありがとうございます」
肘に、腕に、腹に、力を込める。足はまともに立ち上がりそうもないが、仰向けの体を、うつぶせにすることぐらいはできた。
指が足りなくとも、立ち上がれなくとも、這うことはできる。腕があれば、進むことができる。
「ありがとうございます」
ここは山だ。下を目指して進めば、いつかは麓につく。なによりありがたいのは、浄閑寺は吉原の外にあるということだ。
望んだ形ではないが、椿は大門の外に堂々と出られたのである。
扇屋の者たちも病に侵され長く床についていた椿に、まだ動けるだけの気概があったとは思わなかったのだろう。
「ありがとうございます」
病は進行しても、四肢はまだ残っている。死にそうな命だが、まだ死んではいない。扇屋の者たちは、椿がこの地でくたばるだろうと思って、今更追っ手の心配もない。
「ありがとうございますっ!」
今度こそ、椿は己の境遇に感謝しよう。今こそ自らの力で行動を起そう。
価値は失った。意味はなかった。なにも残らなかった。
たとえ麓に降りられても、病んだ体は長くはない。
――それでも、まだ生きている。
肘を伸ばして、曲げる。腕で土をかくように進む。力の入らない足で、背後を蹴る。皮膚が石で裂け、草で血をながそうとも、顎を使ってでも這い進む。
獣の鳴き声は、またさらに近くなった。あれに見つかる前に、山を降りなければ。
思えば、無意味な人生だった。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
まだある命に、外に出られた幸運に、心からの感謝を。
これはもう、虚勢の言葉ではない。
腕を伸ばす、足をかく、腹ばいに進む。
椿の顔に笑みが浮かぶ。歪んだ笑みだ。歪な唇、細めた目。顔全体に勝利の笑み。
生きようとあがく今この瞬間こそが、椿の価値である。
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