ここに、価値在り!

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 「ありがとうございます」  いつしかそれが、椿の口癖になった。怖いとき、惨めなとき、悔しいとき。あえてその言葉を使う。  感謝の言葉を口にしたときによぎるのは、母の顔だ。無価値であった母。その母がなぜあんな顔を椿に向け、「ありがとう」などと言えたのか。礼が言えるというのは、余裕の表れだと椿は思う。余裕のない者は感謝すら抱けない。  私はお前とは違うのだという優越感。椿に蔑まれながら、売られていく椿を蔑んでもいたのだろう母の、虐げられる側の虚勢。それが、あの感謝の言葉だったのではないか。わざわざ礼を言うことで、己を持ち直していたのではないか。惨めさの裏返しだったのではないか。  それを思えば今の椿は心が重い。母と同じことをしている椿もまた、結局は母同様に無価値な存在のように思えたからだ。  水揚げを終えて、一人前の遊女として見世に出るようになってから、椿の感謝の言葉は増えた。  金で椿を買う男たちの下卑た視線と嫌らしい手つき。それに媚びを売らねばならない毎日。  金もないのに、見物目的でやってくる男たちはもっと嫌らしい。格子の中で少しでも身じろぎすれば、口笛、囃し、手を打ち、やんややんや。まるで檻の中の獣になった気分だ。 女同志の激しい競争もある。嫌がらせ、虐めは日常茶飯事だった。  どんなに金を稼いでも、衣装代、化粧台で全て吹っ飛び借金は減らない。むしろ増す一方。  心と体が疲弊しても、客が来たぞと追い立てられる。  遊郭は苦界だ。  かつて売られる前には確かにあった、価値ある自分の優越感など、とっくに吹き飛んだ。この地の女に価値はない。売られた時点で、椿の価値は消え失せていたのだと今更気づいたのだ。――だが、それを認められない。  「ありがとうございます」  余裕を作る(・・)。  怖くない、辛くない、苦しくない。大丈夫、大丈夫。  「ありがとうございます」  私は、母とは違う。美鶴とは違う。女将さんとも違う。そう自分に言い聞かせる、現実から目をそらすように。  ひたすら、感謝の言葉を口にする。 皮肉にも、椿のその在り方は客受けがよかった。何事にも感謝の言葉を忘れない、いじらしい娘。それが椿に対する客たちの評価である。  人気も上々、常連もできた、売上げは見世で上から数えた方が早い。それでも、椿の口癖は消えない。  「椿さんは凄いですね」  そう言ったのは、扇屋の奉公人で助松という男だ。芸人のような美しい男だが、元々見世の遊女が孕んでお情けで産み落とされ、生かされているのだと聞いている。その生い立ちのせいか、いつも卑屈が抜けず、よく奉公人仲間からいじめられていた。  「俺みたいな男にまで感謝をくれるんだから、人間ができていらっしゃる」  「褒めてもなにも出ないよ」  「とんでもない、椿姐さんからなにかもらっちゃぁ、俺が姐さんの馴染みから恨まれまさ」  助松がへらりと笑う。地顔がいいものだから、そういう表情をすると途端に愛嬌が生まれる。男仲間には不評だが、一方で遊女たちからは人気があった。自分が金を払うから助松にお相手願いたいなんていう者もいるぐらいだ。  「俺、他の姐さんたちがちょいと怖いんですよね。普段お高く止まっているのに、なにかにつけコナかけてくるし、それを断られるとも思ってない」  見世の者と遊女との付き合いはご法度だ。まだ美鶴と店主の騒動の記憶も生々しいのに、皆お盛んなことである。  「もし一緒になれるなら俺は、椿姐さんみたいな人への感謝を忘れない、優しい人がいい」  助松がこちらに向けた顔は、先ほどまでと一転して真摯だった。その目に熱があった。椿を求める男たちを同じ熱だが、そこに下卑た色がないのが大きな違いだった。  「そんな人と、この町を出て一緒に所帯を持てたら」  「はいはい、ありがとうね」  その言葉から逃げるように、背後に控えていた椿付きの禿…佳世が持っていた菓子盆から一つ飴玉を取り上げると、助松の口の中へと放り込んだ。飴を口の中に放り込まれながら、未だ助松の目には熱が凝っていた。
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