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その助松から、足抜けの話を持ち出されたのは数日後のことだ。
「椿姐さん、一緒に、この街から逃げてください」
人目を避けて部屋にやって来た助松は、開口一番にこう言った。その目には変わらず熱があり、椿の手を握る彼の力は強かった。その強さが、彼の確固たる決意を感じさせた。
嘘じゃない、と思った。
助松の言葉は嘘じゃない。この苦界から逃げようと言ってくれている。
だが、吉原を逃げ出すことは容易ではない。吉原の周辺は堀で覆われ、唯一の大門は常に見張りが立っている。
たとえ態よく見張りを切り抜けられても、追っ手はやってくる。足抜けはどこの見世でも大問題だから、扇屋だけでなく、他の見世も助力するだろうし、吉原の治安を守る吉原会所の者たちが黙ってはいるまい。必ず捕まえられて、そうして見せしめにされるのがオチだ。
「大丈夫、俺に伝手があります。
姐さんは実入りの物を持ち出して、今日の丑三つ時、大門の近くにある大桜の下で待っていてください。
必ず、迎えに行きます。必ず、姐さんをこの街から救い出します」
かつて、これほどまで椿のために言ってくれた男がいただろうか。
「俺が必ず、姐さんを幸せにしますから」
――どうか。
その声に、懇願があった。
椿がその時点で助松に恋心を抱けていたかと問われれば、そこは首を傾げる。ただ、惹かれはした。本当に、助松がこの苦界から椿を救い出してくれるのならば。そうして助松と所帯を持ち、普通に生きていけるのならばどんなに素晴らしかろう。
「ありがとう」
この地に来て、初めて虚勢ではない…心からの感謝が口について出た。
助松は本気だ。本気でこの地を出ていこうとしている。そんな彼の手の熱さが、目の決意が、椿をほださせたのだ。
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