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折檻部屋に案内されるのは、何年ぶりか。美鶴の件があって以来だ。これから行われるだろう、己への罰を思えば足取りは重い。とはいえ、少しでも遅れようものなら前後を挟む男たちが無理やり椿を引っ張り、引きずってでも連れていくだろう。
足抜けは失敗した。
比較的地味な着物に身を包み、換金できそうな簪や櫛を袂に隠して。
大門の傍に在る大桜の樹の影に身を潜めていた椿は、あっさりと見世の人間に見つかり捕まった。告げ口があったのだと、男たちは言う。
金目の物を持ってこんな所にいるのが、いい証拠だと彼らは口々に言い立てる。
一度は、男たちを振り切り逃げた。けれどもすぐに捕まって。周りはいつの間にか野次馬の壁だ。逃げ場を失った椿は、そのままずるずると扇屋へと戻されたのである。
足抜けは重罪だ。椿の普段の売上を思えば、殺されることはないかもしれないが、骨の一、二本で済む話でもあるまい。
告げ口があったというが、では助松は無事なのだろうか。男たちに、彼について問うてもにやにや笑うばかりで応えてくれない。
廊下の向こうに、折檻部屋の扉が見えてくる。その前に嫌ににこやかな女将の姿があった。
「ああ、椿。悪かったねぇ、あんたを疑ったりして」
夫を数年前に病で失い、女手一つでこの見世を取り仕切る女主人となった彼女は、すっかり恰幅のよくなった体を揺らして、人懐っこく椿の元へとやってくる。
「あんたは良い子だもんねぇ、足抜けなんざしないさ」
「……?」
「まったく、それにしてもあんたもとんだとばっちりを食ったもんだ。本当の悪い子たちは、ほら、この通りだよ」
からり、と女将は折檻部屋の戸を開けた。むっとした、血と汚泥の臭いが漂ってくる。
薄暗い部屋の中、だらり、だらりと赤黒い塊が二つ、天井からつるされていた。
「助松と佳世だよ。お前の騒動に乗じて、そのままとんずらしようとしていやがったのさ。
佳世はお前付きの禿だというのに、恩知らずも大概だねぇ」
助松と佳世。
なにやらすとん、と椿の中で腑に落ちた。なんだ、そうだったのか、と納得と諦めが同時に胸の中を満たす。どうやら自分は囮に使われたらしいと察した。
助松と佳世がいつからそんな関係だったのかはわからない。
助松が椿に向けた言葉は真実だろう。あの熱も、手の強さも嘘はなかった。ただ、それを向ける相手が本当は椿ではなかったというだけで。
「どうやら告げ口にあったのはこの子たちだったみたいだねぇ。すまなかったねぇ、椿。怖い思いをさせたねぇ」
女将の声は、ねっとりと粘着いて椿にまとわりついてくる。椿が足抜けしようとしていたのは事実だ。金目の物を持ち出していたのも、言い訳のしようがない。そんな報告は受けているだろうに、女将はそこのところに触れてこない。
「お前はいい子だもの、お前は足抜けなんかしない。大丈夫、私は信じているよ」
ぎしり、ぎしりと揺れる二つの肉塊は、すでにぴくりとも動かない。
「ありがとうございます、女将さん」
するりと感謝の言葉が口についた。
大丈夫。辛くない、苦しくない、怖くない――私は、惨めなんかじゃない。
ただの、虚勢。
――信じている、などと言った女将だが、その直後に椿の身請け話を持って来た。相手は大店のご隠居で、椿の馴染み客の一人である。七十手前の爺様だ。
女将は椿の意見など聞こうともせずに、この身請け話をさっさとまとめてしまったのである。
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