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4粒目 恋心
「…………」
「冬雪、どうしたの? 開けてよ。ウチだよ。お見舞いに来たんだ」
扉越しに交わす言葉。
春雪の声は、いつも通り明るいままだ。
一方で、私の心の温度はゆっくりと下がっていくのを自覚する。
それは、春雪に対する怒りか絶望か。
あるいは、先輩との関係を隠していた憎しみか。
言葉にできない、どの言葉にも当てはまりそうで当てはまらない。
漆黒の細い糸が心を雁字搦めにしていく。
「……春雪」
喉の奥で、言葉が絡みつく。
今まですんなり発声できていた筈のその名前が、今は毒のように苦い。
昨日のカフェでの出来事が、脳裏を掠める。
「…………っ」
「どうしたの? 意地悪しないで開けてよ」
僅かに躊躇いが生まれる。
このまま春雪を部屋に入れるべきか。
それとも追い返すべきか。
まだ、私の中で〝答え〟は出ていない。それなら――、
「ええ。入って……春雪」
震えそうになる声を無理やり押し込め、普段通りを装うと私は親友を迎え入れた。
✿ ✿ ✿
「もう、心配したんだよ。電話もメールも返してくれないんだもの」
「ごめんなさい。気分が優れなくて……ずっと寝てしまってたから」
携帯を見られなかった理由を言い繕う。
「せっかくのバレンタインなのに急に休むなんて……。心配したよ」
「……。もしかして、早退してきたの?」
「うん! だって、どうしても今日、冬雪に会いたかったから」
そう言って、春雪は鞄の中からソレを取りだした。
綺麗に包装された小箱。一目見ただけで、その中身が何かは判る。
「チョコレート……」
「そう、手作りしたの! 冬雪には絶対食べて欲しかったから」
「……。ありがとう」
カチリ。
その時、乾いたプラスチック音をたてて電気ケトルのお湯が沸いた。
チョコレートから視線を逸らし、話題を紅茶に切り替える。
「今、紅茶を淹れようとしていたの。座って」
「はーい」
言葉がつっかえ、上手く吐き出せないもどかしさに眉を寄せる。
それどころか話題も何を話せば良いのか、ろくに頭が働いてくれない。
「冬雪に食べて欲しくて頑張ったんだー。やっぱりお菓子作りってご飯を作るのとは別物だね」
何度も失敗しちゃった、と屈託のない笑みを浮かべる春雪の姿を横目に見ながら、私は喉にまで出かかった問いを咄嗟に飲み下す。
(昨日、どうして先輩といたの……?)
言葉にできない疑問。
それを直接、春雪にぶつけるべきか躊躇った。
ぶつけたところで、はぐらかされるかも知れない。
正直に答えて貰えたとしても、受け入れられない話かも知れない。
(自問自答なんて意味がない……今目の前に、本人がいるのに)
意味のない問答を空想しては、密かに噛み砕く。
「春雪はストレートティーのほうが好みよね」
「うん。お願い。私は準備しとくから」
「準備?」
「そう。すぐに冬雪が食べられるようにね」
そう言って春雪は綺麗にラッピングされていたチョコレートのリボンを解くと、ズズイッと私の眼前に小箱を見せてきた。
「食べて食べてー」
その小箱には、四粒のチョコレート。
一見、トリュフかプラリネと思われる丸いチョコレート。
そしてガナッシュと思われる四角いチョコレートが二粒ずつ綺麗に収められていた。
「ねぇ、早く食べてみて。溶けちゃう前に」
「う、ん……」
いつも以上に押しの強い春雪の言葉。断る気力も、言葉を発する気持ちも湧かない。
適当に、ガナッシュと思われる四角いチョコレートを抓むと口に放り込む。
チョコレートを噛み砕くと、マシュマロでも入っているのかグニャリとした食感に驚いた。
「……んっ」
「どう? 美味しい?」
「……っ、美味しい、わ」
本当は味なんて分からない。
味覚を感じる前に無理やり喉奥に押し込み、嚥下した。
「嬉しいー! 良かったぁ! ほら、もう一つのほうも食べてみて! 力作なんだよ」
「ん……」
もう一粒のチョコレートを口元に近づけられ、半ば自棄ぎみに口にする。
普段なら美味しいと感じる筈のチョコレートの味は、まったくと言って良いほどしない。
ただただ苦い、愛の塊だ。
「…………」
春雪の視線と無邪気な声に耐えられず、つい視線を逸らしてしまう。
昨日のことを問い詰めたい。
本当のことを確かめたい。
隠しごとをしていた憤りを吐き出してしまいたい。
(なんで、そんなに普通にしてるの……?)
春雪の考えていることが判らない。
以前は、あんなにも解りあえた筈なのに――。
(私から先輩を奪っておいて、そんなに嬉しいの……?)
グルグルとした負の感情が、心を掻き乱す。
「春雪」
このままでは、いけない。
このままでは、いられない。
私が、私の心を護るためにも……!
「春雪……。あの、ね……先輩の、ことなんだけど」
意を決して、その言葉を口にする。
直後、まるでその話題を心待ちにしていたかのように、親友の――春雪は言った。
「安心してよ。先輩はもう、冬雪の中にいるから」
春雪の言葉に、自分の耳を疑う。
「どういう、意味……?」
唐突で脈絡のないその言葉。
「苦労したんだよ……。冬雪には美味しく食べて貰いたかったから」
「……ッ!」
その時だ。
舌の上で溶かしていたチョコレートの中に、ザラリとした異物の食感を感じ取った。
甘く爛れて溶け落ちて――チョコレートにコーティングされた中から、何かが姿を現した。直後、
「うッ、え……げッぇ……!」
強い鉄錆の臭いと生臭い刺激臭が喉の奥から込み上げる。
言葉にできないくらいの吐き気と生理的嫌悪感にゾワリと肌が粟立つ。
「ゲホッ、え……っ、な、に……?」
思わず口に含んでいたチョコレートを掌に吐き出した瞬間、ソレと目があった。
「ひっ、いッ、やぁアあ――――!」
自分でも信じられない絶叫が口腔から迸る。そしてソレを思い切り床へと叩き付けた。
びちゃりと濡れた音をたてて、ソレ――眼球は濁った瞳でこちらを見上げてくる。
まるで、何故食べてくれないのかと訴えかけるかのように――。
「な……、に、これ……なに……これッ」
ガチガチと歯根が煩い音を奏でる。同じ言葉が口から溢れ出す。
それは目の前の現実を拒絶するために、そして何故こんな物が入っているのかと理解不能な出来事を問いかける。
「あーあ。駄目だよ……冬雪」
極めて明るい、場違いすぎる春雪の声が耳朶を打つ。
「吐き出したりなんかしたら〝先輩〟が可哀想じゃない?」
「……ふ、ァは……はる、き……どう、いう」
「わからないの?」
至極当然のことじゃないかと言わんばかりの口振り。
そして徐に床に落とした眼球を拾い上げると、今まで見せたことの無い歪な笑みをその口端に刻み込む。
「――だって、冬雪は先輩のことが好きなんでしょ?」
淡々とした口調で、春雪は言葉を紡ぐ。
「ウチじゃなくて先輩を選んだ」
「…………っ」
「だから――先輩を、食べさせてあげたんだよ」
意味が、判らない。
いや、解りたくない。解りたくなかった。
先輩を? 誰が? ×べた? どうやって?
いつ? 春雪が? 違う――春雪が、そう言った。
そもそも、先輩を最後に見かけた時、その傍には誰がいた?
「…………!」
ザアッと音をたてて、顔面から血の気が引く。
「ま、さか……そんな……ッ」
信じたくない。
「本当は、ウチを食べて欲しかったのに」
先ほど飲み下したチョコレート――その〝食感〟。
「それが叶わないんだもの。……仕方ないよね」
「……ぅ、あ」
恐怖が、絶望が、心を侵食する。
(私が、食べたのは……)
春雪から貰ったバレンタインのチョコレート。
なら、先輩を×べたのは……!
「あ……っ、嗚呼……ああッ、あアぁあああ――――!」
室内に轟く絶叫。身体の底から、ガクンと力が抜け落ちた。
「先輩……ッ、先輩先輩先輩先輩……!」
口に入れてしまった〝先輩〟を全て吐き出そうと無理やり嘔吐く。
「駄目だよ、冬雪。全部食べなきゃ」
それをさせまいと、春雪の手が強く掴んできた。
「ウチのほうが、ずっと冬雪を見てきたんだ。ずっと、好いていたんだ。ずっと、ずっとずっと自分のモノだけにしたかった。自分の手で〝奪いたかった〟のに――あいつが冬雪の心を奪っちゃった」
「――――ッ!」
暗い暗い怨嗟の言葉。今まで見たこともない強い嫉妬心。
それは先ほどまで私が抱いていたモノとは比べ物にならない。
何日、何年、十何年……いったいどれだけの年数をかけて降り積もらせてきた感情なのだろう。
「ウチのほうが、冬雪のことを解ってる」
「春……」
「ウチのほうが、冬雪のことを愛してる」
「春雪……ッ、お願い、訊いて……」
大きく身開かれた眼。有無を言わさぬ圧力。
今まで優しく私に寄り添ってくれていた彼女の姿は、最早微塵もない。
悲鳴とも嗚咽ともとれない声が、口唇から零れ落ちる。
「う……っ、ああ……!」
まるで糸の切れたマリオネットのように、身体が言うことをきいてくれなかった。
為れるがまま春雪に押し倒され、組み敷かれる。
「心が奪られたのなら――奪り返さないと」
春雪の細い指がゆっくりと頬を這い、唇に触れる。
「心も身体も……その命ごと糧にして――冬雪の心を奪り返す」
グイと、春雪の指が口腔に無理やり〝先輩〟を押し込む。
「だから、食べて……ね」
「ン……ッ!」
今目の前にいるのは、愛に執着した悪魔。
恐怖を孕んだ瞳で悪魔を――春雪を見上げることしかなかった。
「はい、食ぁべた」
為す術も無く。抵抗もできないまま――私は先輩への恋心ごと、飲み下した。
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