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花の名
きれいな花を咲かせている
あの花の名前はなんだろう
そんなことは知らないままでも生きていける
なにも不自由なことなどないはずなのに
なぜか無性に名前を知りたくなった
あの花の名前はなんだろう
神田景子、三十七歳。
私はただ生きるためだけに仕事をしている。
二十歳で田舎から上京した私は、これといった夢もなく、とりあえず田舎を出たくて上京した。
小さなアパートを借り、派遣社員として働き始めた。なんとなく二十四歳くらいで結婚して子どもを産んで、なんて思い描いていたが未だ独身だ。
何人か交際したなかで結婚を意識した相手もなくはなかったが、タイミングというのだろうか、相手にその気がなくその気になるまで待つつもりだったが、ある日突然あっさりフラれた。
その経験からか少し恋愛するのが怖くなり、新しい出会いを求めることを全くしなくなってしまった。
世間一般と比べたり、大半の女性が歩むであろう人生、考えれば考えるほどキリがない。だからああだこうだと考えることも疲れたので止めている。
そんな私がここに存在していることを証明できることがあるのなら、それは仕事だけだ。
都心から少し離れているが、高層ビルが建ち並ぶオフィス街に職場はある。様々な企業が入っているビルの二十三階にある会社で、私は経理事務を担当している。
二十歳から働いているから、約十七年この会社に勤めていることになる。派遣社員として入り、何年か勤めた後、正社員として雇用してもらえるようになり今に至る。
最近私は経理部の係長を任されることになり、そのことで少し行き詰まっている。
仕事はそこそこ好きだし、やりがいもあったので嬉しかったが、その分責任も増えた。
自分の仕事をこなしながら後輩の仕事にも目を配らなければいけなくなり、今までとはまた違った大変さが見え隠れし始めていた。
時々フッと思う。
私は何のために働いているのだろう。
結婚もせず、その予定もなく、誰かの役に立っているわけでもないような仕事を毎日毎日こなして…。
『そんなもんだよ』と言われれば、きっとそうなんだろう。
でも、私は何故か違和感を覚えてしまう。私がここに存在していること、生きている意味や価値が全くないんじゃないかって。
わかっている。私は誰かに必要とされたいんだ。たった一人でいい。私という人間を必要としてくれる人が一人でもいたら、私はそれだけで生きる力が湧いてくるし、強くなれる気がするのに。
「いらっしゃいませ」
花屋の店員がにっこりと笑いかける。
「すみません。予算五千円くらいの花束を適当にお願いします」
経理部の後輩が寿退社することになり、送別用の花束を買いに来た。花束の段取りくらい部下に任せればいいのだが、可愛がっていた直属の後輩ということもあって自分が手配することにした。
社内の誰かが結婚するたび羨ましいと思っていたのはいつまでだろう。今はもう何も思うことはなく、素直におめでたいことだと喜べる自分がいた。
「お客様、申し訳ございません。“適当”にというのはとても難しい注文でございます。せめて花束を贈られる方の好きな色など教えていただけると有難いのですが…」
花屋では珍しい男性の店員が申し訳なさそうにこちらを見ている。
「ああ…、すみません。ピンク系が好きな子で寿退社するんです。今まで仕事お疲れさまと結婚のお祝いの意味を込めて贈るものなので、できたらそういう感じでお願いします」
「かしこまりました。分かりやすく説明していただき、ありがとうございます」
男性店員はにっこり笑って、嬉しそうに花を選び始めた。
通勤途中にある花屋で一度も入ったことはなかったが、接客の行き届いた花屋だなと思った。きっとこの男性店員は花がとても好きなのだと伝わってくるほどに、やさしい雰囲気のする花屋だった。
「こんばんは」
先日訪れた花屋の男性店員がこちらを見てにっこり笑っている。
「あ、こんばんは」軽く会釈する。
夜八時過ぎ、花屋は店じまいらしい。男性店員は外に出している花たちを片付け始めている。
「今日はもう店じまいですか?」
「はい。一応九時までなんですけど、この時間になると少しずつ片付け始めるんですよ」
何の違和感もなく会話しているが、私は先日花束を買ったからなんとなく覚えているが、この店員は私のことをあの時の客だと認識しているのだろうか。
「あの、すみません、私のこと覚えてるんですか?」男性店員は一瞬キョトンとしたが、質問の意味を理解したのかにっこり笑ってこう答えた。
「覚えてます。基本的にはお客様の顔を覚えるように心がけてますし、覚えるの得意なんです。でも、すみません。馴れ馴れしく話しかけてしまって」
「いえ、私の方こそ変な質問してごめんなさい」クスクスとお互い笑ってしまった。
改めて店内を見てみると、所狭しと色々な花が並んでいる。店構えは大きくないのに、店内は花が並んでいるにも関わらず広々とした空間に感じる。
店内にはこの男性店員しか居ない様子なので、店長なのだろうか。艶のある黒髪の短髪で、整った顔立ちをしている。清潔感のあるエプロンの胸元に付いている名札には“佐藤”と書かれている。年齢は明らかに私より若い。三十代前半くらいだろうか。
「すみません、帰宅途中に引き止めてしまって。お仕事お疲れさまでした。またよかったら買わなくてもいいのでお店に寄ってください」
あれこれ考えて黙ったままだった私に気づき、申し訳なさそうに男性店員(佐藤さん)が言う。
「こちらこそ、すみません。お仕事の邪魔になるので、もう帰りますね。買わないわけにはいかないと思いますけど、またお店の花見せてください」
「はい。いつでもお待ちしてます」
最近の日常生活で男性と話をすることが、仕事以外で久しぶりな自分に気づく。他愛もない会話が気楽にできて、自分でも心がほころんでいるのが分かった。
仕事もひと区切りついたのでコーヒーでも飲んでひと息つこうかと思っていた矢先、課長が真剣な面持ちで声をかけてきた。
「神田、ちょっと会議室までいいか」
「はい、大丈夫です」私は嫌な予感がした。
課長の話は私の部下が最近仕事のミスが多いことについての指摘だった。私自身の指導不足、確認不足も指摘された。
もう少し部下のフォローを意識しながら仕事に従事してほしいとのことで話は終わった。部下にも気を配りながらやっていたつもりだったが、係長という立場上言われても仕方ないことだと真摯に受け止めながらも、少し落ち込んでしまう自分がいた。
「こんばんは。お疲れさまです」
花屋の佐藤さんがいつもの笑顔で声をかけてくれる。
私と佐藤さんは店先でお互いに気づくと、必ず挨拶を交わす仲になっていた。
「こんばんは。お疲れさまです」
「今日はいい天気でしたね。暖かくなってきたし、花も色々咲き始めてるんで春が来たなって感じで嬉しいです」
確かに暖かくなってきたし、もう三月末だし、春だよな。年度末の仕事に追われて、そんなことすら感じる余裕がなかった自分に気づく。
あれこれ思っていると、佐藤さんが様子をうかがう様なやさしい声で言う。
「あの…、どうかしましたか?元気ないみたいなんで…」
「えっ、そうですか?そんなことないと思いますけど」
私はドキリとして、慌てて笑顔をつくる。昼間の課長の指摘で落ち込んでいたのは事実だけど、誰かが見てとれるほど出てはいないと自分では思っていた。
落ち込んでいるなんて言えるはずがない。見ず知らずの花屋さんに気づかれるなんて恥ずかし過ぎる。
「…そうですか。勘違いしてすみません。気のせいでしたね」
「謝ってもらうことじゃないです。違いますけど、ありがとうございます」
「お礼言われることじゃないです。それよりよかったらお店の花見ていきませんか?」
「あ、はい」
カーネーション、ガーベラ、キンギョソウ、スターチス、バラ、シンビジウム、ヒヤシンス、フリージア、マーガレット、ラナンキュラス、カスミソウ、コデマリ、チューリップ
手書きで書かれた花たちのネームプレートを見ながら、独り言のように花の名前を唱えてみる。思えば社会人になってから、こんなにじっくり花を見つめるなんて一度もなかった。
「花を見てると、僕は元気になれるんです。癒やされるって言った方がいいのかな」やさしい光を宿した瞳で店内の花たちを見つめながら佐藤さんが言う。
「だから花屋さんをしてるんですか?」
「そうです。でもまだ花屋を始めて四年なんです。その前は普通のサラリーマンでした」
「へぇ、そうなんですね。なんでサラリーマンから花屋になろうと思ったんですか?」
「営業の仕事をしてたんですけど、ノルマとか色々厳しくなってきて。もちろん自分の頑張りが足りない部分もあったと思いますが、自分なりに一生懸命やってたつもりでした。
仕事自体は嫌いじゃなかったんですけど、ある日突然なにもかもに疲れてしまって心も酷く落ち込んでいたんです。
俯いて歩くことが多くなっていたそんな僕の足元に、小さな花が咲いてるのを見つけたんです。
僕はその時、生まれて初めて花を花として認識したことに気づきました。そして綺麗だなと思ったんです。自分の心の状態もあったのかもしれませんけど、なぜかその花に救われた気がして…。こんなに小さくても一生懸命咲いてると思うと、元気や勇気をもらえたんです。それからというもの、自分で花を育てることに目覚めてしまって。
そこからは仕事をしながら花屋をやるために色々勉強したり、準備しながら、やっと四年前に花屋を出すことができました。
花屋にこだわらなくてもよかったと思うんですけど、僕と同じように心が少し疲れてしまった人にも癒しとなれるような空間を自分で作ってみたかったんですよね。
もちろん理想だけじゃ生活できないので大変なこともありますけど、僕は今幸せですよ」
言葉の通り、佐藤さんは幸せそうににっこり笑った。
「本当のこと言うと…、実は今日、仕事で落ち込むことがあったんです」
「ほら、やっぱりそうじゃないですか」
佐藤さんはやさしく微笑んだ。
「すみません。ウソつきました。本当は落ち込んでたんですけど、佐藤さんの話を聞いてお店の花たちを見ていたら、少し元気が出てきました。ありがとうございます」
「それはよかったです。よかったらこの花プレゼントさせてください」
そう言って佐藤さんが差し出した一輪の小さな白い花。
「カモミールという花なんですけど、花言葉は“苦難に耐える” “あなたを癒す”という意味があるそうです」
「うれしいです。ありがとうございます」
彼の差し出した花を見つめながら思う。
現実がなにか変わるわけでもないし、解決するわけでもないけれど、一瞬でも穏やかでやさしい気持ちになれてよかった。
不思議だけど、明日からまた気持ちを切りかえて頑張ってみようと思えた。
「こんばんは。お疲れさまです」
佐藤さんがいつもの笑顔で声をかけてくれる。
「こんばんは。お疲れさまです。昨日はお花ありがとうございました」
私も昨日より少し元気になったことを伝えたくて、明るい声で挨拶する。
「いえ。少しでも、その…、あなたが元気になってくれたら嬉しいなと思って」
私は佐藤さんを見つめながら、自分のなかの異変に気づく。
今日一日中佐藤さんのことが頭から離れなかった。今も動悸がして、なんだか心がザワザワする。
これは一体どういうことなのか、久しぶりの感覚すぎて戸惑ってしまう。
「ん?」
見つめ過ぎたのか、佐藤さんはキョトンとしている。
私の心に咲いている、
花の名前はなんだろう─
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