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ハクとタイムリミット
数時間後、俺は家に戻ってみた。
幼稚園から五百メートルくらいしか離れていない、ピンク色のアパートの二階。もうすっかり日は暮れていたから、色もわからないが、うすぼんやりとした光の中に浮かび上がっている。
その下で少しだけ立ち止まっていたが、その光に変化がないことを確認して、二人のいる部屋に向かった。
玄関に近づいたところでふと、声が聞こえてきた。
「――今日も遅くなってごめんね」
母の声だ。俺は足を止め、耳を澄ます。
「店長が厳しくて……」
真白がややあってから言った。
「だいじょうぶだよ。さみしくない。おかあさんはがんばってるんでしょ?」
「真白……」
「だからだいじょうぶ」
がたん、と椅子がずれる音がした。恐らく母が立ちあがって真白を抱きしめたのだろう。
俺はただ待っていた。少しだけ物悲しい気持ちになりながら、ただ二人が寝静まるのを待った。
ようやく部屋から漏れる光が消えて、シン、と部屋が静まり返る。
俺はそこでやっと、家の中に忍び込んだ。真っ直ぐに向かったのは、玄関の隣にある、キッチン。
そこに真白はいた。真っ白い光に包まれて、光っていた。いや、厳密に言えば、彼に憑りついているものが、光っていた。
「――真白」
静かに声をかける。と、目を瞑っていた真白が、チラッとこちらを横目に見て、ため息を吐いた。
「……んだよ、黒都か。起こすなよな」
そう言って真白から、すうっと一人の白い青年がゆっくりと立ち上がった。
彼はハク、という。真白に憑りついていた、死神だった。
真白を抱きかかえた彼は、面倒臭そうな顔をして俺を睨みつける。
それもそうだろう。真白に憑りついている間は、人間と同じように眠くもなるし、お腹も空く。自ずとストレスになるだろうから。
でも、そうしなければならない理由がある。
「悪かった」
素直に謝ると、彼はまた、ため息を吐いて「別に」と吐き捨てる。
それから俺をじろじろと見ては言うのだ。
「また弟の見張りか?」
「うん」
「まじのブラコンだな」
その言葉は何度聞いたことだろうか。苦笑して返せば、彼はふん、と鼻を鳴らす。
「ったく、こりねーやつ」
だが、そういう彼もヒトの事は言えまい。
「ハクだってお人好しじゃないか」
「……」
光が強くなり、眩しさに目を細めると、彼は黙り込んで、俺から視線を外すなり、寝室で眠る母親を見た。
俺も一緒になって母を見つめた。
ハクは、唯一真白を守ってくれているヒトだった。
なぜハクが真白を守っているのか、という理由だが、母親がネグレクト予備軍なのだ。
シングルマザーで子供二人を育てていた母だが、一時期いろいろな仕事を掛け持ちしていたせいで、いつもピリピリしていた。
俺は中学生に上がるから、と放置されていたし、真白には最低限の対応をしているようだった。例を挙げるなら、二日に一度くらいの食事だったり。
まあ、俺たち兄弟からしてみれば、それでも母は頑張ってくれていたと思う。
ただ少し、魔が差した。それだけだった。
気付けば俺はこうなっていて、真白は一人部屋に置き去りで。いつの間にか目の前に立っていたハクが言った。
「――不幸な奴ばっかだな、ここは」
ちょうどあの時と同じ言葉を繰り返した彼が、抱きかかえていた真白の頬を撫でる。
くすぐったそうに真白が身をよじり、ハクは手を止めた。
「……いつまでそうしてるつもりだ?」
ハクの声が静かに響いた。何も言わずにいれば、ハクはすぐ、俺の手に目をやる。
「身体の維持だって限界だろ」
「……ああ」
俺の身体は今、ハクによって仮の姿で現世に留まっていた。霊感がある人には幽霊のようなものだ。実際俺は死んでいるから、その通りなのだが。
それも、四十九日を過ぎてしまえば消える。消されたり、いろいろある。
だが俺はハクに頼んで、こうして留まっていたのだ。それももう、限界ではあるが。
「……それ以上は面倒見切れねーからな」
「わかってる」
「お前……本当にわかってんのか?」
ハクを取り巻く空気がすうっと尖った。痛みを感じる間もなく、彼の言葉が飛んでくる。
「こいつの面倒も見ねーって言ってんだぞ」
「……うん、わかってるよ」
俯きがちに答えれば、ため息が聞こえた。胸を締め付けるような感覚に吐き出した空気が冷えて、白くなる。
ハクは声を抑えて言った。
「週末」
「え……」
「週末までにこいつと別れ、済ませとけ」
そうしてハクは、真白の身体を抱きかかえたまま寝室に戻り、そっと吸い込まれるように消えて行った。
俺はただ、返事をすることもできず、呆然とそこに立っていることしかできなかった。
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