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雲のすき間から見えた虹に向かって。
週末、と言っても、あれから二日後のことだった。
なんて早いんだ、と思う反面、時間が経つほど身体中に痛みを感じ始めて気付いた。身体がもう限界だと訴えていたのだ。
痛みになれるまで一日を費やし、ようやく誤魔化せると思った時にはもう、別れの朝が来ていた。
幼稚園のすぐ近くにある大きな公園。その中心に堂々と立つ大きな木の上で目を覚ました俺は、もうすっかり感じられなくなった空気を吸い込むように呼吸してみた。
もちろん幽霊だから、感じることなんてできないけど。それでも気持ちはいくらか晴れて、幼稚園までの道のりは、ずいぶん軽かったように思う。
午後、いつものように幼稚園の隅っこから覗くと、そこに真白はいなかった。
「あれ?」
何度見回しても、真白はいない。途端に焦りが湧いてきて、思わず幼稚園に入ろうと柵に手をかけた。
「――おにいちゃん?」
だが、杞憂だった。
声のした方に目をやれば、ちょうど建物内から出てくるところだったのだ。
大きな目が俺を捉えて、嬉しそうに細められる。
「真白」
だけどその笑みに甘えてはいけない。
俺は少しだけ胸の辺りに痛みを感じながら、ぐっと顔に力をいれ、真白に言った。
「あのさ……」
「ね、おにいちゃん」
だが、真白は俺の言葉を遮った。キョトン、としていれば、そのまるっこい顔を精一杯笑顔で満たす。
「あのね、きょうぼく、おたんじょうびなんだ」
「あ……」
言われるまですっかり忘れていた。そうだ、今日は……三月二十九日。真白の五歳の誕生日だった。
思わず言葉を失っていると、真白はさらに言う。
「だからね、おかあさんがはやくむかえにきてくれるってやくそくしてくれたんだ。あとこれ、おともだちとせんせーからもらって」
ポケットから飴やお菓子が描かれた、二つ折りのピンクのカードや、首元に閉まっていた折り紙のペンダントを大事そうに撫でる。
「そっか……」
「あれ? おにいちゃん?」
真白が首をかしげてこちらを見た。だが、俺は何も言えず、ただ口元を抑えた。あとからぽろぽろと、生温い雫が落ちていく。
「……ないてるの?」
不思議そうな顔をして聞いてくる真白に、ふるふると首を振った。
俺は悔しかった。
どちらも簡単に作れるようなものだけど、それすら今の俺には作ることができないんだ、と気づいてしまったから。
それがたまらなく――悲しかった。
だけど真白は、そんな俺を心配そうに見上げて言う。
「だいじょうぶだよ。だいじょうぶ。こわいことないよ」
ハッと目を見開いてみれば、にっこりと微笑む真白。
「おかあさんがね、ないてるひといたら、こうしなさいっていったの」
「……そっか」
「あ、にじだ!」
ふと俺の後ろを見て、真白が叫ぶ。俺もつられてみれば、確かに雲のすき間に一本の、虹色の線が見えた。
真上にあるそれは、どうやら他の人には見えていないらしい。
「ほんとだ……」
「すごいすごい! ぼくはじめてみた!」
ぽかん、と見上げていた俺の足元で真白が、普段見せないような、子供らしいはしゃぐ。その可愛らしさに、溢れそうだった心の中が、少し拭われていく。
「きれいだな」
そう言って柵の間から手を伸ばし、真白の頭に触れた。当然、その手はすり抜けて触れられない。
でも真白は嬉しそうに笑って「うん!」と大きくうなずいてくれた。
――そろそろか。
俺は真白から手を離し、そっとしゃがみ込んだ。柵越しに真白と同じ目線になって、笑いかける。
「真白、俺はそろそろ行くよ」
「……」
さっきまでの笑顔が、さあっと潮が引くように消えて行く。途端に言おうとした決意が揺らいでまた泣きそうになった。
ぎゅっと握り拳を作り、無理やり口を動かす。
「元気に生きろよ。母さんとさ。……俺の分まで。きっとこれから先、楽しいことがいっぱいあるはずだ」
――その分辛いことも、あるかもしれないけど。
それはあえて口にしなかった。そういうことは自ずと理解していくだろうから。
しばらく黙り込んでいた真白は、ややあってから口を開く。
「もう、あえない?」
小さな声だった。不安そうな、今にも消えてしまいそうな。
「いいや」
笑って、そう言った。
「俺はあっちで待ってるから」
そう言って人差し指を上に向けた。それはさっき、虹が出ていた場所。
「きっと空の上で待ってる。真白、お前が天寿を全うするまで」
「……やくそく」
「おう」
指切りをして、ニカッと笑う。真白も、やっと笑顔を見せてくれた。
そこで、ズキン、と頭が痛んだ。
俺は立ち上がり、再び真白の頭を撫でてから、そっとその場を離れる。
「じゃあな、真白。誕生日、おめでとう」
「……ありがとう、おにいちゃん。……またね」
涙でぼやける視界の中、片手を振り、背を向けてさっさと歩いていった。
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