1人が本棚に入れています
本棚に追加
「落ちた消しゴムを拾ってくれてありがとう。教科書を見せてくれてありがとう。お気に入りのペンを褒めてくれてありがとう」
ゆったりと流れるように読み上げる小野寺さん。そのありがとう一つ一つに噛み締めるようにちょっとだけ力が入っていた。
時計の秒針が聞こえる。
平日午後のリビングの雰囲気は異質だ。本来は誰もいるはずのない時間。ここにある物の数々の所有者は僕ではなく両親であり、こんなにあふれているのに死んでいるように冷たい。
そんな中で、また中学の同級生がいるという異質感。さらに、延々と語られる感謝。
緊張感や、最近乾燥してきたこともあって変にのどが渇く。小野寺さんの喉も大丈夫だろうか?
そんな僕の心配も気にすることなく。彼女はありがとうを言い続けている。
この時間、やりたいことがないことはない。まだスマホゲームのデイリーミッションを終わらせていない。毎朝のルーティーンにしているせいで、この時間にやっておかないとやり逃してしまうことが多い。
観たいアニメがある。ずっと観たいと思っていて、今日こそは観ようと思っていた。昨日も思っていた。プレイ途中のゲームもそろそろやらないとストーリーを忘れてしまいそうだ。
それに、来年のために体作りもしないといけない。ようやく社会にでる目途が立ったんだ。体力のいる仕事だから、今の僕じゃ全然使い物にならないだろう。こんな生活じゃだめだ。
彼女の話を聞きながらボーッとしていると、そんなやりたいことに押しつぶされそうになる。でも、結局は何もせずに終わるんだ。
来週、世界が終わるか。
それが本当なら。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ嬉しい。そんな僕が、嫌いだ。
僕は、小野寺さんに感謝されるような、あの頃のような僕じゃないのに。
「隠された私の靴を探してきてくれてありがとう」
いまさらそんな言葉を聞けたって、この自他楽な底辺人間を肯定しているようじゃないか。
「三沢さんたちに絡まれていた時に助けに入ってくれてありがとう」
いっそ、世界なんて滅んだほうがいいのかもしれない。
「好きって言ってくれて――ありがとう」
その声は少しだけ詰まっていて震えていた。
いつの間にか僕はうつむいてテーブルを睨みつけていた。
もし、あの日々の中で君の『ありがとう』を聞けていたら、先生を含めた誰もが聞けなかった言葉を僕だけが聞くことができていたら。きっと、今のようなみじめな生活ではなく、もっと特別な人間になれたんじゃないだろうか。
感謝巡りは二時間程度で終わった。時間で見たら二時間もありがとうを言われ続けたのだから恐ろしいもの。でも、終わってみるとあったというまだった。
「じゃあね」
「うん、今日ごめんね。急に来て」
「いいよ。久々に会えてうれしかったし」
小野寺さんが帰ろうとしている。
一瞬だけ、僕は特別な時間にいた気がした。世界の終わり、不思議な宗教、初恋の人との再会。まるで夢を見ていたかのような時間だった。でも、また僕はいつもの世界に戻るのか。
「ね、ねぇ。小野寺さん」
ドアを開けて半身を外に出した彼女が振り返る。
「ありがとう」
結局何も考えてなかったからそんな普遍的な言葉が出た。もう一度君に行為できる僕でもないし、君の世界は来週終わるらしいし。気の利いた言葉も出なかった。
ただ、もう一回だけ。言葉を交わしておきたかった。
「うん」
小野寺さんは薄く微笑んでそのまま外に出た。そして、ゆっくりと扉が閉まる。ガチャンと重苦しい音が鳴ると同時に、僕は君の世界から遠くの現実に取り残された。
それでも、少しだけ。少しだけ夢のかけらは残っていた。
世界の終わりを僕は望む。
僕も君の信じているものを、都合がよすぎるかもしれないけど。
ちょっとだけ、信じてもいいだろうか。
最初のコメントを投稿しよう!