1. 亡霊

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「“口を開けばどこの生まれか分かる”なんてうまく言ったもんだよな…」 この国では下手な事が言えない。 いつだったか、10分違いで先に生まれた兄がこぼしていたのを思い出す。 よその国では決して見られない、ユニークだが面倒くさい概念。 けれど皮肉にも自分を今の世界へと誘ったそもそもの原因でもある存在。 治安の悪化が懸念されるロンドンでは地下鉄に私服警官が乗客として紛れており、イギリス警察のひとつ、運輸警察官がバッキンガム宮殿の衛兵よろしく誇りを持って日々その任務にあたっている。 「Good evening, sir! I enjoyed great feast at the last night!」 (お疲れ様です、昨日はご馳走様でした!) そのうちのひとりが、いやに馬鹿でかい声で智樹の顔をみて敬礼した。どうやら兄と勘違いしているらしい。ああ見えて案外下の者の面倒見はいいのかもしれない。 「Well,I appreciate your hard work, your name...」 (お疲れ様。ええと、君は…) 「Bauer, sir.」 (バウアーです、サー) バウアーと名乗った男は、ニッコリ笑うと智樹に向かって敬礼した。 智樹は警官の名前を思わず二度聞いた。 よりによって米国の24時間眠らないスパイと同じ名前とは。 「I need your help, Bauer. May you get in touch with the other polices by radio ?」 (君に頼みがある。無線を使って地下鉄にいる他の仲間に連絡を取るよう伝えてくれないか?) バウアーは名前に恥じぬ働きをしてくれた。 調べによると、彼女にぶつかった男の姿は地下鉄に備え付けられた防犯カメラに確認されず、 また地下鉄にいる私服警官に連絡を取ったが乗客はいずれも白人のアメリカ人夫妻、 バックパックを背負ったフランス人、ドイツ人の留学生、韓国人と中国人の旅行客だったという。 智樹の知る限り、彼らの中で河口域英語を話す人間はいない。 (さて、どうしたもんか…) 地下鉄に乗ってどこかへ逃げたという線は消えた。 その傍らでバウアーが指示を待つようにこちらを伺っている。見れば見るほど、24時間眠らないスパイとは真逆でおかしくなってくる。 「ジャック」 クロエのノリで思わずそう言った。 「Yes,sir!」 バウアーが馬鹿でかい声で返事をした。 「いや、君じゃない」 思わず日本語で返したがバウアーは微動だにしない。 智樹はバウアーを見つめた。 「Your…first name is…Jack, are’nt you?」 (えっ…まさか名前がジャックなのか?) 「Absolutely, sir.」 (そうですが、なにか?) バウアー改めジャック・バウアーは大真面目に智樹に向かって敬礼してみせた。 智樹は少しの間なにも言えなかった。 「面倒な事になったもんだ。 まあでも貴重な研究サンプルが手に入ったと思えば安いもんか。 実地調査は重要だし、あいつにも貸しができたしな」 ジャックに彩が見かけたという犯人の外見と訛りの特徴、スリにあった時間帯、盗まれた指輪のデザインを書いたメモを渡し、犯人と似た人物を見かけたら連絡をするよう伝えるとキングス・クロス駅を後にした。 行き先を尋ねたジャックに忘れ物をしたから一旦ヤードに戻る、ともっともらしい言い訳をして最後まで兄を演じきった。 今日の礼になにかおごるよ(もちろんあいつの財布で)というと、わかりやすいほど顔を輝かせた。
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