小鳥のはばたき

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小鳥のはばたき

 麗らかな春の陽気が、カーテンの隙間から光のすじを伸ばしていた。私はベッドから起き上がり、軽く伸びをした。壁に埋め込まれたセンサーが私の身体をスキャンし、異常がないことを知らせてくれる。机の上にはロールパンがふたつと、ブラックコーヒー。私の起床に合わせて、空間照射式電子線加熱機が作動し、パンとコーヒーを適切な温度に温めてくれる。  良い時代になったものだ。私が享受している文明の全てが、ほんの百年前には存在しなかったなど信じられない。  私はコーヒーを飲みながら、モニターを起動した。今日の仕事は、軽いものをいくつか片付ければ終わりそうだ。  そういえば世の中が競争に支配されていた頃は、仕事とは自分で勝ち取るものだったらしい。現代では、個人の適性に合わせた仕事が自動的に割り振られる。昔の人々は、例えば自分に合わない仕事をして苦しくなるとか、能力はないが要領の良い者が仕事を独占してしまうとか、そういうことに悩んでいたという。不合理な話だ。 「パンの消費期限が近いので、今日中に食べきってしまいたいのですが、もうひとつ召し上がりませんか?」  入室のブザーと共に現れた妻が、私に尋ねる。私は「では、いただきます」と答えて、短く鼻をすすった。妻は(とう)のバスケットからパンを取り出して皿に置き、部屋を出ていった。パンは瞬時に、空間照射式電子線加熱機によって温められた。  妻と結婚して、今年で三年になる。  結婚も仕事と同じように、相性の良い男女が自動的に選ばれ、あてがわれるのが普通だ。自由恋愛がもてはやされた時代もあったようだが、今ではとても考えられない。  優秀な伴侶を巡る争いは、生物にとって最も原初の「殺戮の理由」なのだ。自由恋愛は虐殺への第一歩とも言える。平和を愛する世の中で、そんなものが許されて良いわけがない。  私が仕事をする日は妻が家事をし、妻が仕事をする日は私が家事をする。そこには不平も差別もない。先日、子供を持つのに適切な模範夫婦であるとついに判断されたため、妻の腹では私の子が育っている。産まれてくる子供に不自由な思いをさせることもないだろう。本当に、良い時代になったものだ。  追加のパンを平らげ、仕事に集中し始める。居住区画で発生したトラブルの解決方法を、いくつか提案する仕事だ。  日照量が不足している区域に増設する、反射式人工太陽の配置。  肥満人口が増加している区域に配布する減カロリー食の量と、カロリーカット割合について。  様々な理由により養育困難となった子供を、どの不妊夫婦あるいは同性パートナー間に養子縁組させるか。  課題は多岐に及ぶが、オーバーワークにならないよう調整してある。私はコーヒーを飲み干し、課題にじっくりと向き合う。  三つ目の案件は特に重要だ。私も孤児であり、養父母に育てられた。しかし自分が養子であることをことさら意識したことはない。養父母との相性が極めて良く、何の軋轢もなかったからだ。社会から受けた恩恵と同じだけのものを、社会に与えなければならない。私は一心不乱に仕事を続けた。音声指示で必要な資料を取り寄せ、時おり独り言を呟きながら……。  ふと、誰かの声がすることに気が付いた。今は誰とも通信していないはずだ。混線だろうか。 『もしもし? ちゃんと繋がったかな。もしもし……』 「もしもし。こちらはヤマガタ・コミューン中央居住区、一般居住地区第五層三番、業務用汎用通信機(こう)です。こちらにお掛けですか?」 『ああ、そうだ。良かった。繋がった……』 「こちらは心当たりがないのですが、お間違えではないですか。それとも混線でしょうか。私の方から、中央通信管制室に問い合わせましょうか?」 『中央に繋げるのはやめてくれ! それより話がしたいんだが、今、大丈夫かい?』 「……ええ、構いません」  妙な話し方をする人だな、と思った。変に抑揚がついていて、聞いていると落ち着きを失うような気がしてしまう。本来ならば、通信に何らかの異常が認められた時点で、速やかに管制室に報告すべきだ。しかし彼の声には何となく、このまま話を聞いてみよう……そう思わせるような魅力があった。 『人と話すのは何年ぶりかな。母さんが死んでからずっと一人だったから、二年……いや、三年か』 「ずっと一人だった? そんなに屋内に籠もる必要があるなんて、どのようなお仕事なのですか? 心身の健康に問題はありませんか? 仕事の分散を提案されてはいかがでしょう」 『ああ、いや。仕事ってわけじゃないんだ。でも、ありがとう。きみは優しいんだな』  彼の言葉の意味が分からず、私はしばし黙り込んだ。その気配を察し、『どうした?』と彼が尋ねる。 「言葉の意味が理解できませんでした。専門用語でしょうか。アリガトウ、とはどういった意味の言葉でしょう」  次に黙りこくったのは彼の方だった。私はてっきり、素人の私に対し「アリガトウ」の意味をどう噛み砕いて説明すべきか、彼が頭を悩ましているのだとばかり思っていた。しかし彼は、ただ打ちのめされていたのだった。 『そうか。外の世界は、そんなふうになってしまったんだな……』  低い声でそう言って、彼は短く鼻をすすった。 「外の世界? まさか、あなたは……」 『ああ、かつて世界的に推奨された「文明化」を否定し、隠れ生きてきた者たちの末裔だ。どうだ、俺を通報するかい?』  その時私の手は、確かに通報パネルに伸びていた。しかし指先が、パネルに触れることはついぞなかった。その理由はなんだったろう。興味、好奇心。彼の声に含まれる、どことなく懐かしい、潤んだような調子……。  ほんの百年前まで、人類は極めて野蛮な生き物だった。一応は文明らしきものを持ってはいたが、文明と呼ぶべきものの表層をなぞっているに過ぎない、おままごとのようなものだった。  他の生き物たちよりいくらか発達した知能と技術は「人間らしい」調和と安寧のためではなく、他の生き物たちと同様、新たな殺戮手段の獲得のために活用された。  餌を占有するため、リスを生き埋めにするプレーリードッグ。  仔を海面に叩きつけて殺し、その母親を強姦するイルカ。  他の群れを奇襲し、逃げ遅れた小猿をリンチするチンパンジー。  聞かされれば誰もが顔をしかめるようなこれらの行動と、イデオロギーの名のもとに繰り返されていた人類の蛮行とが、どうして異なると言えるだろう。  人道という言葉を狂ったように繰り返しながら――その言葉さえ発していれば、理性なき他の生き物たちとは一線を画せるのだと言わんばかりに声を張り上げて――人類は、どうしても虐殺をやめられなかった。  しかし、意味も分からず叫び続けていた「人道」のシュプレヒコールが、ようやく報われる時が来た。百年前、人類はついに殺戮の本能を振り切ったのだ。  戦争をやめよう。不平等をなくそう。分かち合い、高め合い、共に平和を目指そう。少し前までは「理想論だ」の一笑に付されていたであろう言葉たちが、着々と実現され始めた。  そんな動きの中で、文明化を拒否する人々は、当初はそう珍しいものでもなかったらしい。大方の言い分は、自己決定権がどうだとか、思想の自由だとか、人間らしさだとか……人の命とは比べ物にならない、陳腐な主張ばかりだった。  そうした人々は始めこそ、暴力的手段で「文明化」を拒絶していたが、やがて数が少なくなるにつれて消極的拒絶……文明化から逃げ続けるという手段に移行し、彼らの主義を守り続けた。  しかしそんな人々は、既にいなくなったものと思っていた。隠れ続け、逃げ続けて生きていくことなど不可能に思えたからだ。 『通報しないでくれたんだな。ありがとう』  彼はまた、あの単語を口にした。アリガトウ。それの意味を再び問うと、彼は笑いながら『感謝の言葉だよ』と答えた。 「感謝?」 『そう。何かをしてもらって嬉しい。そんな時に、嬉しい気持ちを伝えるために、ありがとうと言うんだ』 「何かをしてもらって嬉しい……よく分かりません。あなたの健康を案じたのは、労働者に過剰な負担がかかり、社会が円滑に回らなくなることを危惧したためです。あなたを通報しないのは、私があなたの話を聞きたいと思ったためです。あなたのために何かをしたわけではありません」 『そうか。それでも俺は嬉しいと思った。だからありがとうと言った。それでは駄目かな?』 「発言の基準が主観的すぎます。同じ行動をして、ありがとうと言われた人と言われなかった人とで、不平等が生じます。不平等は虐殺への発端となる、危険な因子です」 『ありがとうは危険……か。うーん、難しいなあ』  自嘲気味に笑って、彼はまた短く鼻をすすった。この癖に覚えがある。私も、発言の後に鼻をすする癖がある。  何かを言おうと口を開いたとき、ブザーの音と共に妻が入ってきた。手には昼食のトレイを持っている。妻はそれをサイドテーブルの上に置き、すぐに部屋を出ていこうとする。 「ああ、ちょっと」  呼び止めると、妻は振り返って「はい」と言った。 「何でしょう。デザートなら、後からお持ちしますよ」 「そうではなく、その……ありがとう」 「え?」  妻はキョトンと、私を見つめた。それはそうだ。私も、アリガトウという言葉を知らなかった。妻も当然、知っているわけがない。  私が仕事をしている日は、妻は身体の負担にならない程度の家事を行なう。それは事前に決められたことであり、妻はそれを遂行しているだけだ。そこに「感謝の気持ち」などが入り込む余地はない。 「いいえ、何でもありません。仕事の話と間違えました」 「そうですか。お疲れなのかも知れませんね。後で、濃いコーヒーを淹れましょう」  そう言って、妻は部屋を出ていった。私は私の中に溢れた様々な感情を、必死に処理しなければならなかった。  ありがとう。その言葉を発した喉の奥や舌先が、痺れるような感覚がある。それは体性感覚によるものではなく、心的作用による甘い痺れだった。嬉しい? 興奮している? もしくは――(おそ)れている。自分の発した言葉、「ありがとう」というたった一言にこめられた魔力に、心が(おのの)いている……。 『どうかな。ありがとうという言葉は、そう悪いものじゃないだろ?』  私の感じている痺れは、通信機の向こうの彼にも伝わったようだった。私はどうにも、戸惑いを抑えきれなかった。 「分かりません。自分でも、よく分からない。けれどやはり、おかしいと思います。もし私が妻に『ありがとう』の意味を教え、これからも妻のやることに『ありがとう』と言い続けたら……妻も、私のやることに『ありがとう』と言い始めたら……」 『素敵なことじゃないか。互いに感謝し、労り合う。理想の夫婦だ』 「いいえ。それでは不平等です。私たちは良いかも知れませんが、ありがとうを知らない他の家庭との間に不平等が生じます。ありがとうと言ってもらえない人々の労働の価値は、下がってしまうのではないですか? 同じ仕事をしているのに、同じ対価を得られない。そんなことがあってはならない」 『じゃあ、みんなに教えれば良い。他の家庭にも、これから産まれてくる子供たちにも』 「いいえ、いいえ。それでは駄目なはずです。それでは駄目だから、文明は、ありがとうという言葉を選択しなかったのです」 『何で駄目なんだ? 「文明」が禁止しているから、だから駄目なのか? きみの意見はどうなんだ。きみ自身の考えを聞かせてくれ』 「私の考えが何だと言うんです。文明が禁止していることをあれこれ考えさせて……あなたは平和を乱そうとしているのですか?」 『そうじゃない。ただ、考えるんだ。自分の頭で考えるだけで良いんだよ』 「考える? それこそが平和を乱す原因だというのに! 私は殺戮を憎み、平和を愛する、文明的な人間なのです。どうやらあなたは、旧時代を賛美しているようだ。非合理で、感情的で、野蛮な――」 『思考を放棄するな!』  彼の声に驚いて、錯乱しかけていた私は我に返った。沈黙の中で、私たちは同時に鼻をすすった。  次に彼が発する言葉は、驚異的な魔力をもって、私をどこか遠い場所へ連れ去ってしまう予感があった。  しかしその言葉が紡がれる前に、ブザーもなく、部屋の扉が開いた。入ってきたのは妻ではなく、黒いスーツを几帳面に着こなした見知らぬ男だった。 「中央通信管制室の者です。こちらで、不正な通信が検知されました」  私は飛び上がるようにして椅子から立ち上がり、モニターの正面を男に譲った。まだ通信は途切れていない。 『やっぱり独学のハッキングじゃ、すぐにバレるよな』  彼の声の更に背後から、扉を叩くような音が漏れ聞こえた。通信機の向こうの彼は、その雑音を気にする素振りもなく、軽やかな声で笑った。自分の運命を悟り、一種の諦めの境地に至った者にしか出せない、疲れた清々しさがあった。 『こんにちは、管制室の人。きみは、ありがとうという言葉を知っているか?』 「……ええ。知識としてならば」  スーツの男は無機質な声で答えた。 「極めて危険な言葉です。不平等を生み、不満を生み、嫉妬を生み、憎しみを生む。忌むべき言葉です」 『ああ、そうだな。そういう言葉がたくさんあった。ありがとう、ごめんなさい、それから、そうだな……愛してる……』 「それらの言葉は、合理的な社会システムを阻害するとして、口に出すことを禁じられています」 『俺は何も禁じられちゃいない。管制室の職員さん、きみはどう思う? ありがとうという言葉は、尊いものだったはずだ。人間そのものだったはずだ。それがどうして、虐殺の言葉だなんて言われるようになったんだ?』 「人間そのものだからですよ」  幼子を諭すように、スーツの男は落ち着いた声で言った。 「ありがとうという言葉は、自他の区別を明確にしすぎるのです。資源や領土を巡っては殺し合い、信じる神が違うと言っては殺し合い、かつて先祖が殺されたからと言っては殺し返し、その報復としてまた殺し……。その全ては、自他の区別に起因します。あなたは私とは違う。そういった意識が、全ての(いさか)いの源なのです。自分の右手がコップを取り、口に水を運んだからといって、あなたは右手にありがとうと言いますか。水をこぼさず嚥下したからといって、顎や、唇や、舌や、喉に、ありがとうと言うんですか。言いませんよね。それはあなたが、それらを『自分』というひとつの塊として認識しているからです。同一のものであれば、不慮の衝突はあったとしても、憎しみ合うことはない。殺し合うことはない……」 『だから、ありがとうと言うのをやめさせたと? 馬鹿らしい。なんて馬鹿らしいんだ……』  テーブルを叩いたらしい、鈍い音が聞こえた。 『きみたちは人間の本質から目を背け、表面的な対処だけして進歩した気になっている。これは進歩なんかじゃない、逃避だ。何が文明化だ。ただ目を瞑り、耳を塞いだだけじゃないか……』 「では、ありがとうと言うために虐殺を許容しますか? 愛していると言うために殺戮を望みますか?」 『そうじゃない。どうして分からないんだ? きみたちは可能性の芽を摘み続けている。災厄の芽を恐れるあまり、人の数だけあるはずの幸福の芽まで、むしり続けているんだ』  彼はまた鼻をすすった。泣いている……慎み深く、思慮深い泣き声だった。昔――記憶もかすれてしまうような遠い昔に、私もこういう泣き方をしたことを思い出した。  そのメジロは羽を怪我していて、庭の隅にうずくまっていた。幼い私はパンをふやかして、メジロの前に差し出した。死を待つのみの身でありながら、メジロはパンを警戒し、決して食べようとしなかった。私は諦めず、毎日のようにパンを持っていった。しかしとうとう、メジロが私に心を開くことはなかった。  若草に似た羽毛の下から、硬直した肉が垣間見えていた。あんなに潤んでいた瞳は半開きのまま虚空を見つめ、そこには死の安らぎなど少しもなかった。  私はすすり泣きながら、小さな死を(かし)の木の根元に安置した。餌を与えられることを最期まで拒んだそのメジロは、きっと埋葬されることも望まないだろうと考えたからだ。  通信機から聞こえてくる雑音は、いよいよ大きくなってきた。すすり泣く声は聞こえなくなっていた。その代わり冬の夜風に似た音が、何度も何度も繰り返された。  肺いっぱいに空気を吸い込み、それを外界に押し返す。単調な音の繰り返し。それは呼吸音でもあり、とてつもなくゆっくりとした鼓動のようでもあった。 『……俺に残された可能性は少ない。けれど、俺が残せる可能性は無限だ。そうだよな、母さん……』  彼が、震える声で呟いた。スーツの男が通信切断のパネルに触れたが、声の繋がりが途切れることはなかった。 『これで最後なんだ。少しくらい聞いてくれよ。実は、文明化を拒んだ人間たちのコミュニティは、もうかなり縮小しているんだ。母さんも、俺を育てるのに随分苦労した。本当はもう一人もちゃんと育てたかったって、いつも言ってた。でも、どこでどんなふうに育っても、どんな人間に成長しても、母さんはきみを愛してるってさ。母さんからの伝言。これだけは、伝えておきたくて』  彼の言葉を遮るように、大きな破壊音と人の声が聞こえた。『中央通信管制室の者です。あなたを拘束します……』  彼が鼻をすする。顔は見えないのに、どうしてか、彼は今笑っているのだろうという確信があった。 『ああ、もうここまでだ。さようなら。最後に話せて嬉しかったよ。ありがとう、兄さん』  そして妙に軽快な破裂音が、空間を切り裂いた。私は鼻をすすった。私以外に鼻をすする者は、もういなかった。 「対象の自死を確認……分かりました。こちらも対応します」  スーツの男は、ようやくハッキングの(かせ)から逃れた通信を切断し、私に向き合った。よほど私が酷い顔をしていたのか、男はわずかに同情的な顔つきをしていた。きっと幼い私もこんな表情で、傷付いたメジロを見ていたのだろう。 「本事項は特級汚染事案にあたります。あなたには、思考浄化措置が必要です」 「分かりました」 「三十分後に、浄化施設からの迎えが参ります。それまで待機していてください。宿泊の準備は必要ありません。では……」  スーツの男は来たときと同じように、無音で部屋を出て行った。すっかり静かになった部屋から、私は呆然と窓の外を眺めていた。  午後の空は気持ちよく晴れて、絹のような雲が薄く引き伸ばされていく。その広大な青色の中を、一羽の小鳥が飛び去っていった。あれは何だろう、メジロだろうか……。  そう思った瞬間、私は立ち上がっていた。目についたものをでたらめに鞄に詰める。コートを羽織り、帽子を目深にかぶる。急いた足取りで部屋を出ると、まさに部屋に入ろうとしていた妻と鉢合わせた。手には、コーヒーの入ったカップを持っている。 「中央通信管制室の方から事情は伺いました。出発の前に、コーヒーをどうぞ」 「ああ……」  私はカップを手に取って、濃いコーヒーを流し込んだ。このコーヒーは、私の疲れを緩和させ、気持ちを落ち着かせるために用意されたものだ。社会を円滑に回すための合理的判断から、彼女がそれを選択したに過ぎない。 「……ありがとう」  感謝の言葉を口にすると、妻は怪訝な顔をした。私は、膨らみかけた彼女の腹を撫でた。 「嬉しい気持ちを伝えるための言葉です。いつもありがとう。私と結婚してくれて、ありがとう」 「よく分かりません。私とあなたが結婚したのは、結婚適性が合っていたためです。労働人口維持のため、結婚と出産は常に推奨されています。そこに主観を持ち込むことは……」 「分かっています。けれど……ありがとう。さようなら」  からになったカップを手渡して、私は外へと飛び出した。  どこへ行くつもりなのか、一体何がしたいのか、自分でも全く分からない。けれど確かに今、樫の木の根元から、一羽のメジロが飛び立ったのだ。 <終>
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