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昨日、お前を獣医に見てもらった時、もってあと数日だと言われてしまった。雑種の大型犬のお前は、一年ほど前から認知症の遠吠えや食欲不振などで徐々に弱ってきたよね。下痢をするようになってからは、どんどん衰弱していって、ここ二週間は数日おきに点滴を打ってもらって過ごしていたし。わかっていたはずなのに、胸が少し重い。
今日はお前の瞳を見ていない。頭を膝にのせてやりたいが、身動きすらできずに弱々しい呼吸でマットの上に寝そべっているお前の負担になりそうで、怖くてできない。そっと、体の上に手を置いてかすかに動く背中を感じて、安心する。
お前といて、私は幸せだ。悲しい時、辛い時、いつも嬉しそうに私の側にいてくれる姿にどれだけ救われたか。
皆、犬の介護は大変だねと言ってきた。けれど、不思議な事に私は少し楽しかった。苦しむ姿は嫌だったけれど、甘いミルクを嬉しそうに飲んだり、整えられた寝床でリラックスしたり、元気のある日に出かけた散歩で楽しそうな目で私を見るお前が、私はとても愛しかった。どうすればご飯を食べるのか、楽にすごせるのか、お前が嬉しそうにしてくれるのか、考えて工夫して成功した時、どれだけ私の胸が満たされたか。
お前が倒れる少し前、父親が死んだ。私の苦しみの元凶なのに、何年も介護した。嫌だった。辛かった。苦しくて苦しくて、腹立たしくてたまらなかった。私が子供の頃も、大人になっても、要介護になっても、父親は降り積もるような悲しみを与えて、対価に多くを奪っていく存在だった。死んだらいいと思っていた。なのに、世間の価値観に私は負けてしまった。親を大切にという言葉に犯された。他人同士であったなら救いの手があったはずの事を、血縁という呪いのせいで受け入れるしかなかった私に最後に与えられたものは、親を捨てられなかった後悔と人の死を悲しめない自分に対する嫌悪感だった。死に近づく者を思いやりの心で接することの出来なかった自分の矮小さに絶望しそうだった。
そんな私を救ってくれたのは、お前だった。苦しそうなお前が私のすることで嬉しそうに瞳を光らせる度に、私は喜んだ。愛する存在の幸せが私の幸せだと実感できる瞬間の日々だった。そして改めて思った。私は父をまったく愛していない。憎んでいるのだと。父の苦しみも悲しみも私にとっては感心がなく、私の苦痛によってなりたつ快適な介護生活を維持することが嫌で嫌でたまらなかったのだと。人として欠陥だと思い込んでいた私に、何かを愛して尽くせる可能性を見出だしてくれたこの一年。お前は最高の仕事をしてくれた。ありがとう。この感謝は、私が死ぬ瞬間でもきっと忘れない。
背中にのせた手に伝わる暖かさに、私は微笑みながらこう願う。
少しでも永く一緒にいたい。でも、できることなら膝の上でお前の体温を感じたい。最後の瞬間だけでもいいから、ギュッと抱きしめたい。もう一度、喜びにあふれた瞳をみたいと。
私の目の前が少し歪んできた時、お前は目を少しだけ開けた。
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