第二章 親知らずの妖精

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第二章 親知らずの妖精

 雨の音が激しくなってきた。  同じくらい俺の鼓動も激しい。もしかしたら破裂するのかもしれない。  先生、早く戻ってきてくれ……。  太一は泣きそうだった。  視線の先には、親知らずがひげを上手に使って屈伸したり、ジャンプしたり、回転したり……楽しそうに診察台のテーブルの上で動き回っている。  そして最後に、親知らずはフッ素配合の歯磨き粉のチューブの上に、ちょこんと座った。 「もっと歯を磨いてくれていたらなぁ」  親知らずは、ひげをうまく使って、足を組んでいるように見せた。 「……も、申し訳ございませんでした」  太一は頭を下げた。  そっか、こいつ、虫歯にさせた俺に、怒っているんだな。 「いや、謝ることないぜ。しょうがないことさ。……それより、俺の体を見てくれよ。虫歯がタトゥーみたいだろ? かっこいいだろ?」 「……そうですかねぇ」 「ま、気にすんな。俺はお前と話せるだけで嬉しいんだ」  ひょいっと、チューブから立ち上がる。 「あの……私に何の用でしょうか……?」 「そんなに焦るなよ。まずは話そう」  なんなんだ、こいつはと思った。 「なんで、歯から声が聞こえるんだ? なんて思っているんだろ?」  その通りだ。三十年間生きてきた経験から、歯がしゃべるなんてありえない。それに……こいつに口はない。こいつの中から声が聞こえてくるのだ。 「俺は、お前の頭に語りかけている」 「はい?」 「テレパシーみたいなもんさ。考えてみろよ。お前が俺の体に栄養を送ってくれてたんだぜ。詳しく言えば、俺の歯髄にさ。つまり、お前と十年以上も同じ釜の飯を食ってきた仲なんだから、テレパシーを送るなんて朝飯前なのさ。それに……、お前は運がいいんだぜ? 俺みたいなテレパシーができる歯は、宝くじ一等を当てるぐらいの確率なんだぜ? ま、もっと気楽に話そうや」 「そう……なんですね……。……っていうより、宝くじを知っていたんですね」 「奥歯だから、見えなかったけど、お前が話す内容は全部聞こえてたよ。宝くじというものを買って、一等が当たりますようにって、声を出していたよな」 「そうでしたっけ?」  太一は照れくさくてとぼけた。 「……ふふふ。お前が夜中に喘ぐ声も聞いていたぜ……ハハッ」 「そ、そんな話、やめてくださいよ!」  顔がほてってきた。  「最近、ちゃんとした物を食ってるか?」 「はい?」 「だから、お前が摂取している栄養が、俺にダイレクトで染みわたってくるんだぜ」  そういえば、最近は酒とちょっとしたおつまみを、コンビニで買ってきて、夕飯は済ませていた。朝食は抜いて、昼間はラーメンを食べに外食。この生活を二年ぐらい続けていて、健康診断の結果も悪くなっていた。  上京したばかりのころは、自分なりに栄養も考えて、作っていたのだが、だんだんと仕事が忙しくなり、残業もあって、いい加減になってきていた。 「俺が歯茎から顔を出したときは、今から十二年前ぐらいかな? いいもん食ってたよなあ。こう栄養が体に染みわたるーって感じ」 「そりゃそうですよ。私の母がご飯を作っていたんですから」 「お前の母さん、元気にしているか?」  そういえば、母は元気にしているのだろうか。  毎日仕事のことで、頭がいっぱいだった。 「多分……」  太一はあいまいな返事をした。 「さ、そろそろ俺は行くかな」 「どこに?」  太一がそう言うと、親知らずの背から、天使のような白い翼が生えてきた。有名な西洋の絵画で見かけるような、純白な翼だ。  俺の親知らずはいったい……。 「……太一。ありがとう」 「えっ」 「俺に栄養を送ってくれてありがとう。俺を育ててくれてありがとう。……俺の用は、太一にこの言葉を伝えたかったのさ」  親知らずは、翼で軽く二回あおぐと、その風にのるように宙に浮いた。 「ちょ、待てよ。どこ行くんだよ」 「そこらへんを旅でもしようかな。もう、太一の栄養を得られない。俺の命は長くないからさ」 「旅するぐらいなら、もう一度、親知らずとして俺の口の中に……」 「歯が抜けたら、もう戻せないことは知っているだろ? 親離れさ。それと……」 「それと……?」 「俺のことを親知らずと呼ぶのをやめてくれ。俺の親は知っている。お前だよ、太一」  太一から見える景色がぼやけていた。  目からしずくが落ちていく。 「なんて呼べばいいんだよ」 「かっこつければ、第三大臼歯。まあ奥歯でもいいかな。第三つけると言いづらいから、大臼歯でいいよ」 「わかったよ」 「おう、よろしく」  そのまま大臼歯は、ふわふわと窓の辺りまで飛んでいく。 「太一。最後にお願いしてもいいか?」 「なんだい?」 「窓を開けてくれ」  太一は右腕で涙をふくと、窓の鍵を開けた。 「これ、先生に見つかったら、怒られるよ」  そう言う太一に、大臼歯は笑っていた。  さっきまで降っていた雨はやんで、灰色の雲が割れ、日の光がさし込んでいる。草花にのった水滴が、虹色に光っていた。  真っ黒になった歯に、真っ白な翼が生えて、変な感じがする。  ただ、その飛び立つ後ろ姿が、なんだか妖精に見えた。  先生が謝りながら診察室に戻ってきた。  さっきまであった親知らずがないと、先生は焦っているようである。 「先生、大丈夫ですよ。もともと、持って帰るつもりはなかったんだし。俺の大臼歯は旅立ったみたいだから」 「えっ?」 「さ、レントゲン撮りに行きましょう」 「そうだったね」  太一は先生の後をついてく。  診察室を出るとき、太一はふと立ち止まり、振り返った。  
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