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第一章 虫歯
横道太一は、力いっぱいにこぶしを握って、ふくらはぎがつるぐらい、筋肉をこわばらせていた。緊張から、心臓の鼓動が耳に響いてくるし、汗で背中辺りが熱く感じる。
太一の頭は後悔の念でいっぱいだった。仕事が忙しいからって、いい加減にしないで、きちんと歯を磨くべきだったとか、寝る前に酎ハイを飲んだり、チョコレートなんて食べなきゃよかったとか……。
今から一週間前の朝。
右上の八番目の歯、世間では親知らずと呼ばれている歯に、激しい痛みが襲ってきた。数カ月前から、痛くなったり治まったりと、不吉な感じを交互に繰り返していたが、とうとう手に負えない痛みがやってきてしまった。
運よくその日は土曜日で会社は休み。
近くの歯医者に飛んで行ったのだが、初めてお目にかかる先生から、簡単に抜歯と告げられてしまい、嘆息したのだった。
抜歯……。
虫歯に関係なく、親知らずは不必要な歯だから、遅かれ早かれ抜くべきだと先生から言われたが、初体験の抜歯なので、恐怖を感じていた。
そして、抜歯の日を予約して帰ったのだが、その日が今日であり、まさに親知らずを抜こうとしている。
「……口をもう少し大きく開けてね」
先生からぽつりと言われた。
太一は小声で返事をすると、自身の親知らずがよく見えるように、口を大きく開けた。
「横道さん、リラックスしてくださいね」
俺の左側に立つ女性スタッフの顔半分は、マスクで見えなかったが、そう言いながら含み笑いをしているように感じた。
リラックス……無理だ。
治療器具の嫌な音はするが、かろうじて先生の手しか見えず、何をやっているのかわからない。さらに、麻酔がよく効いていて、痛みを感じないことは嬉しいことなのだが、その辺りの知覚がないので、よりいっそう不安になった。
「……抜けたよ。あとは縫うだけだからね」
もう少しの辛抱だ。
それから先生の終わったよという合図まで、さほど時間はかからなかった。
太一は、モニター画面を見ながら先生の説明を聞いていた。
さっきまであった親知らずは歯茎からなくなり、今は縫合された糸だけになっていた。
「持って帰るかい?」
虫歯で黒々になった親知らずを、手のひらにのせて、太一に見せてくれた。
「あー、いいです。気持ち悪いですし……」
「そう」
親知らずを診察台のテーブルに置くと、ちょうど受付のスタッフが部屋に入ってきた。なにやら先生に説明をしている。
「ごめん。ちょっと席をはずすね。あとは……、最後にレントゲン撮らせてね。すぐ戻ってくるから待っててね」
そう言うと、太一を一人残して、先生とその他のスタッフは、診察室から出て行ってしまった。
太一は背もたれに寄りかかり、深く息を吐いて目を閉じた。
緊張が解けて、どっと疲れが出てきた。
雨が降ってきたのかな。窓に打ちつける軽い音がする。
まあ、今日は天気も曇り空で悪かったし……。あ、そういえば俺、傘持ってきてないじゃん……最悪じゃん……。
いろいろ考えいるうちに、太一は眠ってしまった。
……なんだか声が聞こえる。
キャラクターのような高い声。
ふっと意識が戻ってきた。
ゆっくり目を開けて、声のする方に視線を向ける。
俺の歯がある診察台のテーブルからだ。
太一は診察用の椅子から下りると、声のするテーブルに顔を近づけた。
「オイ!」
「どわあっ!」
驚いて背中からひっくり返った。
ど……どこから聞こえたんだ……。ぶつけた背中をさすりながら考える。テーブルには声がするものなんてなかったはずだ。
気味が悪く、確かめずに逃げようと思った。四つん這いになる。そのまま診察台の側を通り過ぎようとしたときだった。
「逃げんなよ」
「ハイッ!」
体が凍った。
ゆっくりと顔をあげる。
息が止まりそうになった。
目の前に、俺の親知らずが立っていたのだ。ナマズのような……、五センチほどの白いひげのようなものが、上下二本ずつ生えていて、その二本を使い、バランスよく立っていた。
「とりあえず、太一。まずは席に座れ」
「ハ、ハイ」
太一は震える両手を使って、立ち上がった。
何……これ……。
このままダッシュして逃げようと思ったが、止めといた。もしかしたらうまくいかず、ホラー映画のように、その気持ちの悪いひげで殺されるかもしれない。とりあえず、従ったほうがいいだろう。
「おい、ちょっと待て。俺をテーブルにのせろ」
回れ右した太一の背後から、そう聞こえてきた。
振り返ると、親知らずがひげを振っている。
夢をまだ見ているにちがいない。
そう思いつつ腰を下ろして、太一は両手を差し出した。
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