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五
みょるもょる?
わたしは自分の耳が信じられなかった。
「どうしてあんなのが店にいるんですか!」
沙苗が泣き顔で喚いている。完全に同じ気持ちだった。
「わたしも、わからないわ」
山寺さんが力なく答える。
「わたしが店に来たときから、すでにアレはいたの。あの冷凍室に、封印されていたのよ」
「え……」
「なぜかわからないけど、あの言葉さえ言わなければ身の危険が降りかかることはないって、そう教えられた。なのに、どうして」
封印――それを沙苗が解いてしまったというのだろうか。
ゲル状の化け物は、のそりと、厨房にいるわたしたちに近づいている。巨大なコンニャクに似た体から、湯気が立ち込めているのが見えた。小さな腕がくっついていて、指が五本生え揃えているのが醜悪さに拍車をかけていた。
わたしたちは動けなかった。あまりに非現実な事態に思考が飲み込まれ、体が言うことを効かなかった。
「感謝シテ、感謝シテ、感謝シテ」
化け物から、ぶつぶつと呟く声が聞こえた。山寺さんが深く息をついた。
「アレは、たぶん感謝されたいのよ」
言っている意味が理解できなかった。
「だから、あらゆる感謝の言葉が嫌いなの。もしそれらを発してしまったら、怒り狂うわ。だから、あらゆる感謝の言葉を自分の名前にしたのね。自分が感謝されたいから」
みょるもょるが、小さな腕をぐっと伸ばした。
次の瞬間、腕がものすごい速さで伸びて、沙苗の首をつかんだ。
「っぐえ!!」
「沙苗!」
伸ばした腕を元の長さに縮めたので、彼女の沙苗の全身が鼠色の塊に埋もれた。
「あ、熱いいっ!」
彼女の絶叫がこだました。肉の焼ける不快な臭いが鼻をつく。
溶かされているのだ。
わたしは戦慄した。ゲル状の中で、沙苗の左半身がぐずぐずに崩れているのが見て取れた。
「熱いよおおっ! 千絵っ! 助けてえ!」
埋もれていない右手をばたばたさせている。化け物がのそりと動いて沙苗の顔をわしづかみする。白い肌が見る見るうちに赤黒く爛れていった。
心臓が破裂してしまうんじゃないかと思うくらい、強く脈打った。足が震え、眩暈がする。沙苗が、沙苗が死んじゃう。
沙苗はなおも必死に抵抗していたが、右半身を無理やり押し込まれ、今や首から下はすっぽりとゲル状の中に覆われていた。
「感謝シテ、感謝シテ、感謝シテ、感謝シテ」
化け物が、ぼそぼそと呪詛のようなものを呟きながら沙苗の顔を激しくこすっている。
その拍子に赤黒いドロドロした皮膚がめくれて白い陶器のようなものが露出し、それが沙苗の骨だとわかったとき、こめかみの奥で何かが「がりっ」と鈍い音を立てた。
「ち……え……。たす……け」
いつのまにかわたしはしゃがみ込んでいた。猛烈な吐き気が喉元にせり上がっている。立てない、見れない。どうしてこんなことになったのか。沙苗の声はか細く、今にも消えかかっていた。ちがう、あれは沙苗じゃない。沙苗の声なんかじゃない。
「しっかりしなさい!」
誰かに襟元を思い切り引っ張られた。目の前に涙と汗でぐしょぐしょになった山寺さんの顔があった。
「はやく逃げるのよ! あなたまで取り殺され――」
言い終わらないうちに、彼女の首がつかまれ、そのままさらわれた。
わたしは、無我夢中で逃げた。
休憩室と厨房。この三つの部屋で「ありがとう」を口にしてはならなかったのは、冷凍室にいるあの化け物に聞かれてしまうからだ。沙苗が起こしてしまった。沙苗が、沙苗が――。
店を飛び出したあと、歩道に膝から崩れ落ちた。涙がコンクリートを濡らした。わたしは沙苗を見殺しにしてしまった。親友でもあり、憧れだった彼女を。
ごめんなさい。わたしを許して。
通行人が、泣いているわたしを遠巻きに見ている。わたしは店に振り返り、もう一度沙苗に謝ろうとした。
店のドアから、鼠色の腕がわたしの顔めがけて伸びてきた。
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