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四
沙苗が「え」と顔を上げる。山寺さんと数秒視線を合わせたあと、困ったようにわたしに目配せした。「え、あれ、わたし何か変なこと言った?」
「うんー―みょるもょるって言わなかったよ」
「ああっ」
ドジった、と自分の頭をポンと叩く。
「たしか休憩室と厨房と、冷凍室では言っちゃだめなんでしたっけ。忘れてまー―」
言い終わる前に、山寺チーフが沙苗の頬を張った。
「あなたねえ……!」目が充血し、全身がぶるぶると震えている。「 ちゃんと言われたことは守りなさいよ!」
尋常じゃない剣幕に、わたしは唖然とした。沙苗は自分の身に何が起きたか理解できない様子で頬に手を添えていたが、やがて怒りがふつふつと湧いたのか、山寺さんを睨みつけた。
「はあ? 暴力振るうとかマジあり得ないんだけど」
ビンタなのか、興奮によるものなのか、白い肌が赤く染まっている。
「千絵も見たでしょ。あたし叩かれたよね」
「う、うん」
「店長に言いつけようかな。山寺チーフにいきなりパワハラされましたって」
「やめなよ、沙苗」
「なんで? だっておかしくない!?」
沙苗がヒステリックに大声を上げた。そして、溜めていたものを吐き出すかのように、ポケットからぼろぼろの紙をつかんで引きずりだした。バイト初日にもらった、『みょるもょる』と書かれた紙だ。
「ありがとう言ったらだめとかさあ、どう考えてもおかしいじゃん! そんなバイト先聞いたことないよ。理由すらまともに教えてくれないし、は? なに、いきなりビンタされなくちゃいけないくらい大層な理由でもあるわけ!?」
初日からの不満を爆発させ、猛然と食ってかかっている。山寺さんは顔面蒼白になり、両手で口を押えていた。小さく「やめて、それ以上言わないで……」と声が漏れているのが聞こえた。
「あたし、このバイト辞めるわ。こんな意味不明なルールがあるから皆すぐ辞めちゃうんだって。千絵も一緒に辞めよう? 他にもっとまともなバイトあるって」
騒ぎを聞きつけたのか、厨房から料理スタッフが慌てて顔をのぞかせる。その血相変えた表情に、わたしは只ならぬものを感じとった。みんな何かに怯えている。沙苗を止めなければ、と思った。これ以上、彼女が口にしないうちに――
「短い間でしたけど、ありがとうございました!」
沙苗が皮肉交じりに頭を下げた、その直後、
ガンッ!
ガンッ!
すぐ隣から、鉄がぶつかる鈍い音がした。
しん、と休憩室に沈黙が訪れる。沙苗が訝しんで口を閉じた。誰もが冷凍室のドアに視線を送っている。
「……どうしてよ」
ぼそりと、山寺さんが呟いた。蛍光灯の明かりが彼女の頬骨をくっきりと浮かび上がらせていた。
ガンッ!!
ひときわ強い衝撃がとどろいた。わたしは思わず「きゃあっ」と悲鳴を上げてしまった。
冷凍室の内側から、誰かがドアを叩いているのだ。
いや、叩いているというレベルではない。壊そうとしている。何者かが、冷凍室のドアを破壊しようしている。
「逃げるのよ!」
山寺さんが、叫んだ。
その声に反応したのか、ドアにぶつかる間隔が早くなった。
「あそこに、何がいるんですか!」
「いいから、千絵ちゃんも付いてきなさい!」
腕を引っ張られ、休憩室から出る。建物の構造上、休憩室からお店の外に出るときは必ず厨房を通っていかなくてはいけない。わたしは山寺さんに引き連れられながら、グリル横にある冷凍室のドアが視界に入った。金属の表面が、こんもりと膨れ上がっているのが見えた。あれはなんだろう。しっかり確認しようと視線を移したとき、ドアが吹き飛んだ。
凄まじい轟音を放ってドアがグリル機に衝突し、そのまま床に跳ね返った。
「きゃあ!」
「うわ!」
あちこちで悲鳴が上がる。心臓が止まるかと思った。ドアはわたしの足先すれすれを滑っていき、壁にぶつかって止まった。固い金属の表面が裂かれている。いや、溶けているのか? 湯気のようなものが、裂けた部分から出ている。
「なに……あれ」
ドアの残骸に気を取られていると、後ろから沙苗のかすれた声が耳に入った。振り向いたわたしは、たまらず息を飲んだ。
冷凍室から、巨大なゲル状の物体が姿を現していた。
鼠色に覆われ、所々斑点のようなものが浮き上がっている。三メートルくらいはあるだろうか、腕のようなものがにょきっと生えていた。
「なんなんですか、あの化け物」
わたしは縋るような気持ちで山寺さんに訊いた。
山寺さんは絶望にまみれた表情でゲル状の塊を指さすと、
「あれが――みょるもょる」
と言った。
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