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一
「この店では〝ありがとう”という言葉を使わないでほしいの」
バイト初日。店外の物置でごみ出しのレクチャーを受けていると、チーフの山寺さんが急に声を潜めてそんなことを言った。
「このルールだけは必ず守って働いてちょうだい。絶対に、ありがとうって口にしてはだめ」
ありがとう禁止?
わたしは訳も分からず山寺さんを見上げた。
隣で一緒に研修を受けている沙苗も同じ気持ちなのだろう。大きな瞳でまじまじと彼女を見つめている。
「――どうしてだめなんですか?」
少し間を置いてから、沙苗が至極当然の疑問をぶつけた。
「理由は教えられない。ごめんね。ただ、この店ではそういう決まりになってるの」
「でも、お客さんはお店の中で普通に会話してますよ。前にここでご飯食べたときも、そんな注意書き見たことないですし」
たしかに。ここ『ジーニーズ・レストラン』には何度か沙苗と足を運んだことがあるけれど、店員さんから「当店はありがとう禁止です」なんて言われたことはない。
「正確に言うとね――」山寺さんは深刻そうな表情のまま続けた。「厨房と休憩室。この二つのフロアで口にしてはだめなの」
なぜそれらの場所限定なのだろうか。疑問に思っていると、山寺さんが近くの戸棚から何かの紙を取り出した。
「“ありがとう”の代わりに、今後はこの言葉を使うようにして」
渡された紙には、ひらがなで一言だけ。
みょるもょる
という文字が印字されていた。
「みょる……何語ですかこれ」
沙苗があからさまに気味の悪そうな顔をして訊く。
「どこの国のものでもないわ。でもこの店では、これが『ありがとう』を意味する言葉になってるの」
「はあ……」
「ちなみに最上級の『どうもありがとうございます』と言いたいときは、『んぱ いやす みょるもょる』。まあこれは別に覚えなくてもいいわ。基本は『みょるもょる』だけで大丈夫よ」
わたしはたまらず尋ねた。
「あの、サンキューとかじゃだめなんですか」
「だめよ」
きっぱりと断られる。なぜ言葉一つにそこまでこだわるのか理解できなかった。沙苗も不満そうに制服の袖をいじっている。
微妙な空気を感じとったのか、山寺さんが眉根を下げて詫びた。
「変なルールを押し付けて申し訳ないと思ってる。だけどこれさえ守って働いてくれれば、ここはお洒落で楽しい職場だし。なにより安全だから。お願いね」
この話はこれでおしまい、とばかりに両手をパンと叩くと、ごみ出しのレクチャーを再開させた。
“安全だから”。山寺さんが最後にさらっと口にした言葉が、そのあともわたしの心にずっと引っかかっていた。
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