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心の奥の奥
心の奥の奥 ゆい子
夫は九十歳になる。私も八十五になった。
戦争の昭和、災害の平成、ウィルスの令和に翻弄されながらも、肩を寄せ合い生きてきた。
あと数日で夫の命は尽きるだろう。大病でも事故でもない、寿命なのだから、夫も本望ではないだろうか。
今、目の前で夫は機械や管につながれたまま、一日中病院のベッドで眠って過ごしている。毎日病院に通い、ただ隣に座っていることしかできない私は、夫の寝顔を見つめながらこう思う。
最後にもう一度だけ話がしたい。
念じるように、今日も夫の寝顔を食い入るように見つめ続ける。
私達は子供に恵まれなかった。
昭和の時代は結婚したら子供を持つことが当たり前の価値観が強く、私は親戚や近所からずいぶん非難された。
子供ができない原因は女性にしかないと思われていた時代だったため、私は女性としても嫁としても出来損ないの烙印を押されてしまった。
夫は後継ぎだったため、姑は私に離縁をほのめかすようになった。
戦後の高度経済成長期のことで、時代も価値観も早いスピードで変化していたのに、それでも後継ぎが産めない女は離縁なのか。
精神的に追いつめられ、私は日に日に痩せていった。
ある晩、二人の狭い寝室で、布団を頭からかぶり、夫は私をギュッと抱きしめた。
「声を出さないで聞いて」
え?聞いて?
「今夜、みんなが寝静まったら、この家を出よう」
「え?」
「声出さないで!」
夫は私の顔を夫の胸に押しつけた。
「君の実家には手紙を書いて送った。事の顛末を詳細に伝えた。この家にも置き手紙を書いてある。僕たちは今から友人の手を借りて東京に出る。東京での家も別の友人が用意してくれている。すべて僕に任せて、君はただついてきてくれるだけでいい。わかった?」
困惑した。夫は両親に従うおとなしい人だと、ずっと思っていた。
「ついてきてくれるなら、必ず幸せにする。理解できたら頷いて」
布団の中でくぐもって聞こえた彼の言葉は、初めて会ったお見合いの日から今日までで、一番力強く感じた。
私はゆっくり頷いた。視界は真っ暗だったが、未来はこのうえなく明るく、夫と私を照らしていた。
東京での暮らしは幸せそのものだった。
小さいが、二人で住むには充分な広さの家には最新の家電がそろっていた。
「冷蔵と冷凍、別々の冷蔵庫ってあるのね・・・・便利だわあ。あ、卵置き場がある」
私が冷蔵庫の扉を何度も開閉していると、夫は後ろから私をそっと抱きしめてくれた。
「こんなに痩せて・・・・。すまなかったね。これからは母や父にいじめられることもない。親戚に嫌味を言われることもない。お風呂だって君が一番に入ってゆっくりすればいいんだよ」
「えっ、そんなこと・・・・」
「一緒に入ってもいいよ」
「いやいやいや、それは」
夫は私の手を引いて、居間へ連れていった。
「一緒に並んで座って、カラーテレビを観よう。昼間、君が一人で寝転んで、おやつを食べながらドラマを観たって、誰にも咎められない」
夫は今までの古い価値観にガチガチに縛られている私を、こうして解放しようとしてくれているのだと思った。
「おなかすいたね。今日は食べに出ようか」
「あ、なにか作ります。あなたのお友達が冷蔵庫に沢山食材を買っておいてくれてありますし、お米も・・・・」
夫は私の言葉を遮るために、軽くキスをした。
「あなた?」
私は真っ赤になって硬直した。
「今日は食べに出よう。出かけたついでに薬局でハンドクリームを買おう」
夫は私の両手を握り、ひび割れた指の節をまじまじと見つめた。
「苦労させたね」
私が変わらなければ、夫は一生私に負い目を持ちながら生きるのかもしれない。そう思わせる呟きだった。
「私、ラーメンを食べてみたいのだけど、いい?」
私の初めての意思表示に、夫の顔はぱあっと明るくなった。
「よし、行こう。すぐ行こう」
高度経済成長が終わろうとしていた、ある秋のことだった。
夫婦二人の楽しい生活が十年を過ぎた頃だった。
夫は五十になり、仕事が忙しく、私は一人で寂しい時間を過ごすことも増えた。
非行、不良などのドラマが流行り、私も最終回には涙した。近所の男の子はインベーダーゲームにおこづかいをつぎ込んでいた。
ある日曜日、電話が鳴った。
我が家では電話が鳴ることはあまり多くなく、あっても夫の仕事の用件か、夫の友人と決まっていた。それでも日曜の昼間に電話がくることはほとんどなかった。
夫にコーヒーを淹れてあげていた途中で電話が鳴り、ヤカンをガス台に置いて電話のほうへ向かう私を夫は
「いいよ、出るよ」
と制した。
私は戻ってコーヒーを淹れようとしたが、その手が止まった。
受話器からかすかに漏れ聞こえてくる声が、女性のものだったからだ。何を話しているかはわからなかったが、聞こえてくる雰囲気から、仕事でないことを感じ取った。私は自分にも『女の勘』というものがあるのだと悟った。
夫は電話を切ると
「ちょっと出てくる」
と言った。
東京に出てきてから一緒に暮らした十年ちょっと。そんな曖昧なことしか言わないで出かけたことは一度もなかった。しかも電話を切ってすぐ、なんてことも。
「コーヒー、淹れましたけど」
「君が飲んで。ゆっくりしていて」
夫はジャケットをはおりながら、私に笑顔を見せて、家を出ていった。その笑顔は不器用な子供が画用紙で作ったような、いびつな笑顔だった。
夫がついさっきまでそこにいた・・・・。
居間に最近出したばかりの炬燵に足を入れ、コーヒーを飲みながら、正面に座っているはずの夫を想った。
私の勘を確認しよう。もし後悔しても、知らずにいるよりはいい。
私はコートを着て外に出た。
近所の公園。書店。商店街。
自転車をとばし、息をきらしながら夫の姿を探した。
お願い、裏切らないで!
叫びだしそうになるのを必死でこらえた。
商店街にもいなかった。引き返そうとした私の視界に、一瞬だけ、なじみのあるジャケットが入ってきた気がした。慌てて振り返ったが、やはりいない。
なに?今の・・・・。
しかしお店とお店のあいだの狭い通路に目を凝らすと、駅の向こうの小さい神社の階段を、男女が肩を並べて上がっていく後ろ姿が見えた。その後ろ姿は、私が毎朝、いってらっしゃい、と見送る、見慣れた夫の背中だった。
私は自転車を目の前の陶器屋に預け、駅に向かって走った。
踏切は少し遠くにあり、駅向こうの神社に行くためにはぐるっと遠回りをしなければならないからだ。徒歩なら駅の構内を突っ切ればいいだけなので、神社に近い。
私はこんなに速く走れるのかと自分でも驚くくらい、速く走った。
神社の石段を上りきる前に、二人の姿が見えた。慌てて私は身をかがめ、石段の横のススキの群生の中に隠れた。ススキは背が高く、私の体をすっぽり隠してくれた。
二人は私が隠れた場所に近いベンチに座って話し始めた。近いので、会話がはっきり聞き取れる。
これはラッキーととらえるべきなのか?
「会いに来られるのは困るよ」
「すみません」
「家にも二度と電話しないでくれ。妻が電話を取っていたらどうするつもりだったんだ」
「・・・・仕事の電話を装うつもりでした」
「あのね・・・・僕は妻を裏切らない。絶対に」
「でも・・・・でも、気持ちは・・・・心は私に向いているって、先日おっしゃいましたよね?」
なに?
「それは・・・・心は自由だと思っているからね。でも結婚は契約だから、僕は妻を絶対に裏切らない。ただ、心の奥の奥、誰にも見せることのない部分は、僕の自由だ。そこで好きな人を想う自由くらいは許されてもいいと思う」
「それは私ですよね?」
「そうだね。でも君と触れ合うことはできないよ」
女性は嗚咽していた。苦しい泣き方だった。
しばらく泣いて、やっと落ち着いてきたのか、女性は言った。
「あなたのその『心の奥の奥』に、ずっと私をいさせてもらえますか」
「もちろん。一生、そのつもりだよ」
私は胸の痛みが限界になり、そっとその場を離れた。
体の裏切りさえなけれぱ、妻に誠実であると言えるのだろうか。心は妻に向いていないのに。心も体も私だけのものであってほしいと願うのは、女のわがままなのか。
東京に逃げてくる夜、夫が私にくれた言葉を、私は思い出していた。
『ついてきてくれるなら、必ず幸せにする』
あの夫はもういない。いつのまにか消えてしまった。
預かってもらっていた自転車を取りに、商店街の陶器屋へ戻ると、私の姿を見たご主人が慌てて奥さんを呼んだ。
住まいのほうから出てきた奥さんは
「ちょっと裏に行こうか」
と私の手を引いて、裏に連れていった。
頭のてっぺんから足の先まで、ススキのふわふわした綿毛をたっぷりつけた私を椅子に座らせ、奥さんは丹念に綿毛を取ってくれた。
「ここでは泣いても大丈夫よ」
奥さんの柔らかい言い方が私のこわばった心に響いた。
私は奥さんのエプロンにしがみついて、泣いた。
「がんばったねえ」
奥さんは私の背中に大量についているススキの綿毛を取り続けてくれた。
あの日から四十年が経った。
私達夫婦は平凡な幸せを噛みしめるように、大切に日々を過ごした。
病院のベッドの上で眠り続けている夫の手を、私はそっと握った。
「あなた、もう起きないの?」
どうせ返事はないと思っていたら
「・・・・う・・・・ん」
と夫がかすかに声を出した。
驚いて顔を見ると、夫は目を細く開けていた。
意識があるのは何日ぶりだろう。いや、きっとこれは最後のときだ。
私は言った。
「あなた、私がわかる?」
夫は瞼を軽く閉じて頷いた。
「あなた、私・・・・私・・・・」
伝えたい言葉が見つからない。
夫はつないでいる手に少し力を込めてくれた。
私は勇気を出して、聞きたいことを口にした。
「あなた・・・・あなたの『心の奥の奥』に、私をいさせてもらえますか」
夫は一瞬躊躇したようにも見えたが、先ほどと同じように頷いた。
私はもうすぐ亡くなる最愛の夫に、最後の言葉を耳許ではっきり伝えた。
「うそつき」
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