第3章 能條邸の居候

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第3章 能條邸の居候

結局わたしは公に警察と顔を合わせることはなく終わった。 この能條邸の管理者である彼女、下鶴茅乃さんはあとで考えても申し訳ないくらいわたしのために奔走してくれた。 わたしから自己申告した身辺の事情が事実かどうかはその時点では彼女にはわからなかったわけだけど。本当だった場合下手に放り出すとまた、手ぐすね引いて実家の周りで待ってるかもしれない借金とりの許にわたしを戻すことになる。それはさすがに自分も寝覚めが悪い、とひとまず判断してくれたようだ。 ひと眠りしたところで起こされて温かい出来立ての食事を振る舞われ、さっぱりして身体も休めたしお腹も満たされた。それで向こうとしては充分してくれたわけだし、ここでそろそろ警察に連行されるのかな。 とこっちは内心で覚悟していたが、忙しそうにばたばたと館の中を駆け回る茅乃さんはその隙間をぬってさっと車で外出してしまい、それ以上細かい話を聞かれることもなくわたしは彼女の部屋でそのままゆっくり身体を休めるように言われただけ。 不安というわけじゃないけど。自分がこれからどういう扱いになるのか何もわからないままはやっぱり落ち着かない。途中でわたしの様子を見にきてくれた澤野さんにおずおずと尋ねてみる。 「わたし。…そろそろお暇した方がよくないですか。このままじゃいくら何でもご迷惑だし。…家出人てことで、警察に行くことになるのも正直」 困る。とは口に出来ずごにょごにょとごまかした。身柄を引き渡されても、まあ不法侵入については彼女は知らないままみたいだしそっちは不問になりそうとは考えられるけど。 警察だってわたしの家に連絡してもどうせ誰も出ないわけだし。もしかしたら父親か母親を見つけ出してくれるかもだが、正直あまりもうどっちとも一緒に暮らしたくはない。 母はきっと今の生活があるだろうなぁ、と思うと今さらこの歳になって向こうに引き取られることになるのも気が引けるし。父は、…嫌いじゃない、と思ってはいたけど。 あの借金とりの男に言われたことがどうにも胸に引っかかって飲み込めず喉が詰まったような気持ちになる。 本人が本気でそんな心算でいたとは必ずしも信じるわけじゃない。でも、父との思い出にぽつんと黒い染みが落ちてじわじわと広がっていくような。少なくとも自分がやばいところでお金を借りて家にわたしを一人きりにしておいたら。そこにあの手の奴が来るだろうってことはいくら何でも予測できただろう、と思う。 やっぱり信頼が損なわれれば今まで通りそばにいて気安くはなれない。いつまたわたしを置き去りにするかわからない。成人すれば今度は正式に連帯保証人にされることだってあるかもしれない。 もうあんな思いは懲り懲りだし、彼が変わらなければ同じことが何度も繰り返されるのは想像に難くない。そして今後、父が心を入れ替えて真っ当な大人になるのは残念ながらおそらく望み薄だと思う。 どうしても親と一緒に暮らしたくない、って突っぱねたらどうなるんだ。これまで考えたこともなかったけど養護施設とかに行くことになるのか?だけどわたしはもう十八だ。この歳になって、そんなとこに入る意味あるのかな。高校中退してたらいくらでも世の中に出て働いてる子いそうだし。もうあとは自力で何とかしなさいって言われない?どのみち。 澤野さんがわたしの身の上をどの程度茅乃さんから聞いてるかはこちらには判然としなかった。だけど多少は何か心得てるのか、にっこりと笑ってわたしを安心させるように答えてくれた。 「まあ、そう焦らなくても大丈夫。あの子も悪いようにはしないと思うわよ。あれでなかなか世話焼きというか。面倒見がよくて懐が広いたちだからね」 「それは。…わかります」 最初は話し方でちょっときつめの性格かと思ったけど。その後接してる感触ではずばずば言うは言うけどあまり棘も感じられず決して当たりが強くはない。もしかしたら、あのときは会話の相手が『彼』だったから。よその人と話す時とは少し勝手が違ったのかもしれない、と何の根拠もなくちらと考えた。 澤野さんはてきぱきと食器を片付けてからポットで熱い紅茶を淹れてくれた。これまで嗅いだこともないような上品な香りがふわっと辺りに広がる。これが上流階級の暮らしかぁ、と貧乏人丸出しで感心するわたしに言い聞かせるように先を続けた。 「多分あなたの身の振り方までしっかり見届けるつもりなんじゃないかな。責任感の強い子だし。警察に丸投げしたり、行き先もわからないまま出て行くのをよしとはしないと思うわ。まあしばらくここに滞在させるつもりみたいだから。この先どうしたいかはもう少し落ち着いてから、きちんと彼女と話し合ったら?」 「え。…しばらくここに、ですか?わたしが?」 何でもないことのように言われて軽く面食らう。だけど。 そこまでしてもらう筋合いでもない。もともとこっそり閉園後のバラ園に潜んで不法に泊まり込んだただの侵入者だし。幸い茅乃さんは知らないはずだけど。 ここの家の人たちがわたしの行く末を気にかけなきゃいけない義理はどう考えても全然ない。なのにそこまで甘えて本当に大丈夫なのかな。
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