第2話

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第2話

 俺が彼〜〜シュウイチ〜〜に出会ったのは、ひと月程前の事だ。  日暮れてから街に出ていた俺は、ストリートにたむろしている少女達に声をかけ、売春婦じみた彼女達の生き血を少々頂き、腹を満たしてねぐらに帰る途中だった。  人通りのほとんど無い、暗い裏道で蹲っていた彼。  初めは、ただの酔っぱらいだと思った。  けれど側を通りかかった瞬間、彼の全身から発せられている悲鳴が聞こえたのだ。  それは特殊な俺の耳にしか聞こえない、生命の危機に瀕した生き物の「断末魔の軋み」にも似た叫びだった。  いつもならそんなもの、見向きもせずに通り過ぎただろう。  己の存在に何一つ希望も価値も見いだせずに、ただ日々を無為に過ごしているだけの俺にとって、自分以外の存在を気に掛ける余裕など無かった。  あの時、どうして彼に声をかけようと思ったのか?  それはあの時から今に至るまでの間、ずっと己に投げかけている疑問だった。  ただ無性に……。  まるで、耳元で囁かれでもしたような。  本能の奥底で、今日の執着を予感したかのような。  曖昧だけれど、どうしようもなく抗しがたい気持ちが俺の中に衝動的に湧き上がり。  声をかけなきゃいけない! と強制されたような。  そんな気がして…。  俺が背中に手をかけた時には、彼はもう意識を半分手放していた。  日頃あまり付き合いの良くない彼が、同僚の送別会だからと無理に誘われ面白半分に飲まされたという事情は、後で聞いた。  身動きのとれなくなってしまった彼は、そこでほんの少し休むだけのつもりだったとか。  助け起こした彼の身体からアルコールを抜いてやる為に、俺は彼の首筋に牙を突き立てた。  そして、一口。  口中に溢れた甘露な味わいに、俺がどれほどの衝撃を感じたかは、筆舌に尽くす事など出来はしない。  それまでの俺は、夜の街に澱む朽ちた錆が溶け込んだような血液しか口にした事しか無かった。  多少の差違はあれど、全体的には似たようなモノで。  だから、人間の血液など全部「そんなもの」だと思っていた。  誘惑するかのように、ほんのりと甘く。  冷たい俺の身体を暖めるかのように、情熱的で。  舌を蕩かすほどに、美味な。  そんな至福を味わったのは、本当に生まれて初めての事だった。  最初の一口が喉を通り過ぎた時、俺の理性はホンのひとかけらも残っていたかどうか…?  俺は夢中で彼の命の源を貪った。  縋るように俺の腕を掴んでいた手から力が抜け落ち、パタリと落ちて俺の膝を叩かなければ。  俺は、確実に彼のエナジーを全て食らい尽くしてしまっていただろう。  我に返った俺は甘露の誘惑を必死に振り解き、彼の身体を近くの公園に運び込みベンチに横たわらせた。  喰う以上に狩らない。  それが最大にして唯一の、暗黙のルール。  正体を見破られ追われない為の防衛手段であり、同時にそれは、呪われたイキモノが持てる最後の誇りでもある。  彼の血に激しい渇望を覚えたが、俺はまだ、獣に成り下がりたくはなかったから。  小さな公園の水飲み場でハンカチを濡らし、青ざめた額に浮かぶ冷や汗をぬぐってやり。  水銀灯の冷たい灯りの中で、蒼白になっている彼の相貌は殊更に美しかった。  ジッと見つめていたら、今にも理性を失って彼の首筋に食らいつきたくなる。  俺は自分の気持ちを落ち着ける為に、暫くその場を離れた。  公園の外に出て、目に付いた自販機でスポーツドリンクを購入し。  それを持った俺が戻る頃、彼は意識を取り戻していた。  俺を見上げた瞳は、夜の闇の中にあっても宝石の如く。  黒曜石のような闇夜の黒かと思えば、光の加減で菫の花に似た紫にも見えた。  俺の差し出した飲み物を受け取り、命を脅かしかけたアルコールと通りかかったヴァンパイアに体液を奪われた影響で焦点の合わない瞳を眇めた様子は、まるで研ぎ澄まされた刃物のような鋭さが見え隠れしたのに。  事情を理解して己を落ち着かせるように飲み物を口にした後に俺に向けられた視線は、まるで真昼の太陽のように明るく、屈託のない穏やかな微笑さえ伴っていた。  一瞬見せた警戒心と、打ち解けた後の無防備さの極端に、俺は酷く驚いたけれど。  一瞬ミスマッチに思えるその両極端な表情が意外なほど調和していて、見惚れてしまう程の魅力を放つ。  動いていない筈の俺の心臓が、流れていない筈の血液で、ある筈の無い体温を、上昇させるような錯覚。  その今までに感じた事がない感覚に、俺は混乱した。  あまりに混乱した俺は、彼の無事を確認した途端に、まるで逃げるようにその場から離れてしまったのだった。  そうする以外の事は、何も出来なかったから…。
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