青空

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 弁当屋をオープンしてから一年が経ちました。やっと一年といえばいいのでしょうか。それとも、まだ一年といえばいいのでしょうか。月子にとって一年は、まだでもやっとでもありませんでした。オープン当初から贔屓にしてくれる雑居ビルのオーナーの郷田から「六月でまる一年になったね」と言われるまで気がつきもしなかったのです。もう一年、それが月子の感覚に一番近い言いかたでした。気がつけば、もう一年、三百六十五日が経過していたのでした。 『青空亭』それが月子の営む弁当屋の店名でした。晴れた日も雨の日も青空のように爽やかな気持ちで店を経営していきたいという想いがこめられた店の名前です。さまざまな候補から選んでつけた店名ではありませんでした。店をはじめる前からこの店名にしようと月子は思っていたのでした。 「月子は青空のようになりなさい。空が晴れているからといってそれが青空じゃないの。雨の日だって雪の日だって、雲に覆われて見えないだけで雲の上はずっと青空なのよ。夜に月が空に出ているときもやっぱりそれは晴れなの。暗くても晴れなの。泣きたくなるような時や辛いときがあっても、それは幸せが隠されているだけで、その先には幸せがちゃんとあるの。それを忘れないためにも月子は青空のように生きていくのよ」と、母から言われて育ってきました。月子はこの母の言葉を忘れたことがありませんでした。店の名前を青空亭に決めたのは、この名前以外には思いつきもしなかったからでした。  父は月子がまだ小学五年生のとき心臓の病で亡くなりました。それ以来、母は再婚することもなく一人で小料理屋を営みながら月子を育ててくれました。子供だった月子には生活の苦しさはよくわかりませんでしたが、朝早くから夜中まで母が働いていたのは覚えています。酒に酔って帰ってくる日も多く、顔を紫色に腫らして帰ってきた日もありました。きっと苦労が多かったのでしょう。それにも関わらず母は泣き言ひとつ言うこともなく、いつだって青空のように明るかったのです。  月子が高校を卒業し飲食店に就職をした年に母は亡くなりました。川に入って自殺したのです。なぜ自殺などしたのか、はっきりとした原因はいまだにわかっていません。遺書すら残っていませんでした。はっきりしているのは事件ではないということだけでした。事故かもしれないという疑いは残っていましたが、釣りもしませんし、普段川に行くこともない母が川に行くことは考えられません。自殺するために行ったとしか考えられませんでした。警察もそう判断を下して、深く調べようとはしませんでした。
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