青空

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 ついに家賃が払えなくなりました。これまで一度として滞らせたことはなかったのですが、売上げの減少が響いていました。月子は家賃の支払日にビルの管理室に出向くと、呑気に詰め将棋をしていた郷田に頭をさげました。予想していたのか、郷田は眉間に皺を寄せることもなく気持ちよく待ってくれました。 「家賃なんていつでもいいんだから。お金があるときにでも払ってくれたら、それでいいんだよ」  屈託のない笑顔で言う郷田をとなりの席の女性事務員が睨みつけていました。ボールペンのノック部分をカチカチとなんども押しながら呆れたように舌打ちをしています。ちらちらと月子の顔をみてなにか言いたそうでしたが口を開くことはありませんでした。月子はなんども頭を下げて謝ることしかできませんでした。  月子はこの頃毎日のように亡くなった母を思い出していました。母の側に行きたいと思うようなこともありましたが、そういう気持ちが湧きあがってくるたびに健太を思い出し否定しました。健太がいなければとっくに母の後を追っていたかもしれません。母は月子がいましたが月子の存在はブレーキにはならなかったようでした。いいえ、ブレーキにはなっていました。ただ長期間にわたる苦しみがブレーキの力を弱めて、やがて効かなくなってしまったにちがいありません。もし、月子もこの状態が長期間続いたとしたら……。そんなことは考えたくありませんでした。しかし考えたくないと思えば思うほど考えてしまうのでした。  晴れた青空のような気持ちでいることはこういうときは辛いものでした。泣いたり恨んだり、怒ったり憎んだりできたらどんなに楽だったでしょう。いっそ何もかも捨てられたらさっぱりとするのかもしれません。店を閉めて他の仕事に就こうか、と考えたことは一度ではありませんでした。青空亭を閉めてしまえばボーノ亭の店主は喜ぶことでしょう。勝ち誇ってますます商売に励むようになるでしょう。店を閉めることで幸せをプレゼントすることができるのです。人に幸せを与えられることは幸せなことです。しかし幸せを与えることで悲しみを得なければならないのなら、その幸せはまがい物ではないでしょうか。月子は自分の心の内側をだれにも話すことができませんでした。青空のように明るく振舞う反対側では暗闇のなかで大雨が降り続いていたのでした。  限界は迫っていました。何をどう考えようと現実は迫ってきました。後一か月もしないうちに青空亭は資金繰りに行き詰まり倒産しそうでした。郷田にお金を借りようか、それとも斉藤と結婚しようか。そうすれば助けてくれるかもしれない。もっとも考えたくないことを考えてしまいます。月子は、毎日心配して顔を出す郷田や諦めずに口説き続ける斉藤や弁当を買っていく客たちや店の状況など何も知らないに健太に、明るい笑顔を振りまきつつも悩みながら途方に暮れ続けていたのでした。
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