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金銭的な余裕もできて溜まっていた家賃を管理室に持っていくと郷田はいませんでしたが、かわりに事務の女性事務員が受け取ってくれました。礼を言って頭をさげると、女性事務員は札を一枚一枚吟味するように確かめて机の引出しに乱暴にしまいました。
「美人はいいですね。ただでさえ安い家賃を待ってもらえて。いったい郷田オーナーにどんな魔法をかけたのかしら」
女性事務員は眼鏡の真ん中を指で押しあげながら言いました。化粧気のない肌はシミそばかすが目立ち、おそらくは三十代後半くらいなのでしょうが、五十代を過ぎているように見えました。
突然向けられた悪意ある言葉に月子は唖然として答えられないでいました。
「オーナーはね、あなたに気があるんですよ。あなたずいぶんと色気がお有りですもんね。お月様のようにほんときれいだこと」
「郷田さんはただ親切なだけだと。……感謝はしていますけど」
月子はささやくように答えました。
「親切ですって。事務の仕事はぜんぶ私にまかせてオーナーはなにもしないっていうのに」
「そうなんですね……」
「息子さんに早くビルを譲ればいいんですよ。年寄りには宝の持ち腐れってもんですよ」
「宝の持ち腐れなんて……」
「いいえ、冗談ですよ。いやですよ、本気にしたら。お店が大変なところ家賃を払っていただきありがとうございます。オーナーの郷田にもつたえておきますね」
女性事務員は取り消すように手を振ると、急に愛想良く言って笑みを浮かべました。
なにか女性事務員を傷つけるようなことをしたのではないかと、月子は心配になりましたがなにをどう言えば良いのかわからず、ただ黙って頭を下げることしかできませんでした。
夕方になりいつもよりも一時間はやく店を閉めると、学校帰りにきた健太と家に帰る前に月子は「ちょっとお向かいの店に用事があるから」と言って、健太を店に待たせてひとりボーノ亭に向かいました。
ボーノ亭の店主は月子がくると忙しそうな手を止めて店先へ出てきました。疲れているのか目の下に紫色のクマができています。
「なんですか、負け犬の顔でも拝みにきたんですか。このとおり店は暇ですよ。忙しいのは私ひとりですがね」
店主は油で汚れたタオルで手を拭きながら言いました。タオルもきれいにする暇がないのでしょか。洗濯をしてあげようかしら、と月子は思いましたが、別の日に言ってみようと思い直してこの時は言いませんでした。
「急にお客さんが減ったみたいだから、すこし気になりまして」
「見事にお宅の店に客を奪われてしまいましたな。最初だけですよ、よかったのは。なんでかね、うちは大手弁当チェーンで信頼もあつい。値段だってやすいし、衛生管理もきちんとしている。味だって問題ないはずなんだけどね」
店主はため息をつきました。
「お店の自慢だと思うんですけど、から揚げの味がすこし薄いのかも知れませんね。もうすこしニンニクをきかせてみてはいかがでしょうか。それに量も三個ではなく五個にしてみては」
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