青空

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 郷田がいうには、この頃すっかり客が減ったボーノ亭がその腹いせに青空亭に嫌がらせをしたのだといいます。青空亭に客がこないようになれば、またボーノ亭に客が戻ってきます。そうなればボーノ亭は繁盛します。青空亭の客が減って利益を得るのはボーノ亭をおいて他にはないからだそうです。  郷田のいう理屈は月子にも理解できましたが、だからといってボーノ亭の店主を疑う気にはなれませんでした。そもそも月子は人の悪意を疑うことができないのです。  一度限りの嫌がらせだったらどんなに良かったでしょう。しかしシャッターへの落書きは翌日からも続き、ゴミもばらまかれ続けました。落書きの文字はいつも同じ『食中毒発生中』でした。カクカクした丸みのない書体でスプレーの色は毒々しい赤でした。シャッター全体を埋め尽くすように書いているのも同じでした。同じ人間が書いているにちがいありません。  月子は毎朝、健太を小学校に送り出すと家事もそこそこに店にやってきました。街に人通りがまばらなうちに店の前のゴミを片付け、郷田から預かったクリーナー液をつかってシャッターの落書きを落しました。弁当をつくるための仕込み時間を削るわけにはいきませんので、はやく落書きを消してしまわなければなりません。いくら考えても犯人に心当たりのない月子は、これも幸せになるための試練だと思って毎朝おなじ作業を繰りかえしました。  月子よりも怒っていたのは郷田でした。持ちビルを汚されたのだから怒るのは当然です。犯人が証拠を残していないか、毎朝ビルの周りを探して回っていましたが手がかりとなるような物は見つからないようでした。ついにたまりかねた郷田は月子が止めるのもかまわずボーノ亭に乗り込んでいきました。  午前十時を過ぎたころでした。まだ昼時の客が来だす前でしたので店にはボーノ亭は店主しかいませんでした。月子は心配しながら青空亭の前にでてふたりの様子をみていました。すぐに言い合いは始まったようで、ふたりの言い争う声が聞こえてきました。 「言いがかりだ。いくら客が減ったからといって、そんなことをするほど俺は落ちぶれていないぞ」  ボーノ亭の店主の荒れた声が聞こえてきます。 「いや、あんなことをするのはあんたしかいない。青空亭がつぶれて一番よろこぶのはあんたの店だろう」 「証拠もないのにそんなことを言うのなら名誉棄損で訴えてやるぞ」 「証拠なんていらん。わしは警告をしにきたんだ。確認しに来たんじゃない。いいな、今度青空亭のシャッターに落書きしてみろ、ただじゃおかないからな。ゴミもばらまくなよ」 「俺じゃないっていっているだろ」 「ほざいていろ。逆恨みもいいかげんにしろよな。くそオヤジ」  郷田は背中に店主の罵声をあびながらボーノ亭からでてきました。店主は拳をふりあげながら「ばかやろう」と叫んでいます。道行く会社員や学生が遠巻きにしながら通り過ぎていきました。二人連れはこそこそと話しながら、大学生のような若い女性はなんども振り返りながら足早に通り過ぎていき、腰の曲がった老人は振り返りもせず杖をつきながらボーノ亭の前を過ぎていっていました。
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