青空

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 青空亭に戻ってきた郷田は怒りが収まらないらしく、月子の出した冷茶をごくごくと飲みほしながら、ひとり言のように「話にならん、話にならん」と繰り返していました。 「今夜からあのオヤジを見張ることにするから。さいわい管理室の窓を開けておけば正面にボーノ亭がみえる。夜中に悪さをしないか監視してやる」 「そんな、私のために。どうか無理をしないでください。大変ですし、お体を壊すかもしれませんから。私ならなんど落書きされて平気ですから。消せばいいだけですから」 「わしは平気ではいられないんだよ。あなたは健太くんもいるし監視なんてできないんだから何も気にすることはない。それにビルはわしの物でもあるんだ。我慢するにも限度があるってもんだよ」 「でも……。はい、すみません」  月子が申し訳なさそうに頭をさげると、郷田は「わしに任せておきなさい」と言って冷茶をおかわりしました。ボーノ亭の亭主は厨房の奥に引っ込んだのか月子の店からは姿をみることができませんでしたが、ときおり調理器具を床にたたきつけるような音が聞こえてきました。  翌朝、月子が青空亭にくるとシャッターには落書きがされてなく、ゴミも散らかされていませんでした。念のためボーノ亭の前を確認すると同じようにシャッターが閉まったままで何も変化はありません。夜中に郷田が犯人をみつけたにちがいありません。もし郷田になにかあったらと思うと月子は気が気ではありませんでした。シャッターを閉めたまますぐにビルの管理室に行くと、ドアのノックもしないで開けて入っていきました。郷田は眠そうな顔をしながら椅子に腰かけて、珈琲を片手に新聞をひろげていました。 「おはよう。もうこんな時間か」  欠伸をする郷田の目の下には紫色のクマができています。 「夜、なにかあったんですか」 「ああ、取り逃がしてしまったよ。残念だ」  月子の顔を見ると待っていたように昨夜のことを話しだしました。 「午前一時ころだったかな。管理室の電気を消してすこし窓を開けて見張っていると、黒いジャージを着た男がゴミ袋とスプレー缶を持って現れたんだ。男はゴミ袋を店の前に置くと、持っていたスプレー缶を上下にふりはじめた。こいつがこれからしようとするのをきちんと確かめたほうがよいのはわかっていたんだが、わしはもう我慢ができなかった。あわてて管理室を飛び出していくと男に声をかけたんだよ。なにをしているんだあ、ってね。すると黒いジャージの男はわしにむかってスプレーを吹きかけてきた。目を綴じて後ずさっている間に男は走りだして逃げていった。もちろんわしは追いかけたさ。だけど歳には勝てなかった。すぐに胸が苦しくなって走れなくなってな。息が切れてしまって叫ぶことすらできなかったよ。もうすこし若かったら捕まえられたんだけどな。残念だ」  郷田は悔しさを滲ませながらもどこか得意そうに話しました。子供がテストで頑張ったけれど良い点を取れなかったとき、その努力を褒めて欲しいような表情をしていました。 「無事でよかったです。もしお怪我でもしていたらと思うと、わたし、心配で」 「せめて犯人の顔を確認したかったんだがな。マスクをしていたし帽子もかぶっていたから顔が見えなかったんだ」 「いいんです。犯人なんてわからなくても」
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