青空

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 落書きの影響もなく客足は順調に増えていきました。ボーノ亭がオープンする前よりも若干ではありますが客は増えてきていました。ボーノ亭に奪われた客が戻ってきたというだけでなく、この場所に弁当屋があることがこの近辺を普段歩かないような人にもひろく知れ渡ったためです。ボーノ亭が販売促進の広告チラシを出したり、割引セールをしてくれたりしたおかげで、ボーノ亭に行かなくなった客が目の前にも青空亭という弁当屋があることを知って来るようになってくれたのでした。  以前よりも忙しさが増し仕事も充実してきたある日、ついに覚悟していたことが起こりました。いつかはこの日がくると思っていました。別れた夫、竜一が店を探し出してやってきたのです。法的にきちんと別れ公正証書もかわしたのだから何も恐れることはないし、店が見つかったからといってやましいこともなにもありません。隠していたわけでもありません。別れた後のことなのだから弁当屋を開業したことを話す必要がないと考えただけでした。月子は堂々としていればよいだけでしたが、竜一の姿を見ただけで体がふるえだしてしまいました。抑えようもなく過去に暴力をうけたことが思い出されてきたのでした。 「元気そうだな」  竜一はカウンターから身を乗り出しながら言いました。月子は厨房で食材の整理をしている最中でした。昼どきの賑わいが過ぎたあとで他に客はいませんでした。 「どうしてここがわかったの」  偶然店に入ってきたとは思えませんでした。あきらかに客のいない時間帯を狙ってきています。 「ここで弁当を買っている会社の部下が教えてくれたんだよ。美人がやっている弁当屋があるってね。それで特徴をきいてみたら月子にそっくりだったんでね。ここに来てみたというわけだ。ああ、俺、前の会社を辞めて不動産屋に転職をしたんだけどな」  不特定多数の客がくる弁当屋なのだから竜一の職場の人がくることだってあるでしょう。月子が気づかないだけで月子のことを知っている客がくることだって考えられます。探し出して来たというわけではないでしょう。 「そ、それでお弁当はなににしますか」 「弁当を買いにきたわけじゃないよ。健太は元気にしているか」 「もちろん元気だけど……」 「俺に会いたがっているんじゃないのか」 「あなたに会いたがっていたことなんてありません。むしろ会いたくないみたい」 「どうせ、俺の悪口を毎日言い聞かせているんだろう」 「そんなことはしません」  嘘ではありませんでした。たとえ別れた夫とはいえ、月子は一度も竜一の悪口を子供に言ったことはなかったのです。  健太を引き取りにきたのではないか。そんな不安が月子を襲いました。手放したくない。手放すわけにはいかない。健太は月子の生きがいであり、健太のいない生活なんて考えられませんでした。
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