青空

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「ああ、そうか。やっぱり前の旦那のほうがいいんだ。課長にはそりゃ、寄りを戻すように言ったさ。再婚したみたいだけど夫婦仲は良くないみたいだし、喧嘩も絶えないって言っていたし、暴力もふるわれているみたいだったからな。でも、ここの場所を教えたのは寄りを戻させるためなんかじゃないんだ。あいつが来れば月子さんはきっと怖がると思ったんだ。怖がれば店をひとりで続けることも不安になるだろう。不安になれば僕のことが必要になるんじゃないかって思ったんだ。僕はよろこんで助けてやるつもりでいた。守ってやるつもりでいたんだよ。僕のこと好きって言ったじゃないか。せっかく月子さんの背中を押してあげたというのにさ。なんだ、まだ前の旦那に気があったというわけか。いいさ、また再婚でもすればいいさ。好きなもの同士でくっつけばいい。そしてまたDVでも受けて苦しめばいいんだ。ああ、なんだ、僕は遊ばれていただけだったんだ」  斉藤は握りしめた拳でカウンターをなんども叩いきました。目は血走り、眉間には深い皺ができています。あとずさった月子は恐怖でふるえながらも、いつでも逃げられるように裏口が開いているのを確かめたと、注意深く視線を斉藤に固定しました。  竜一に青空亭の場所を教えたのは斉藤だったのです。竜一が転職していたのは聞きましたが、斉藤の上司になっているということまでは知りませんでした。竜一から前妻の月子のことを聞いて知っていたのでしょうか。斉藤が偶然入ってきた青空亭に月子を見たのが先かはわかりませんが、斉藤はどこかのタイミングで竜一と月子の関係を知って、それでも近づいてきたのでしょう。  それにしても月子は斉藤のことを「好き」とか「愛しているとか」「付き合いたい」などと過去に一度も言ったことがありませんでした。それらしい素振りをみせたこともないはずですし、誘惑と勘違いされるようなことをした覚えもありません。それなのに斉藤は一方的に思い込み決めつけてきています。  沸騰した斉藤は大声で意味不明な言葉を叫び出すと、カウンターに乗っていたメニュー表や陶器の人形を払いのけて床に落しました。壁に貼ったチラシを破り、ガラスケースの中から惣菜を取りだして厨房に向かって投げつけました。足でカウンターを蹴り、入口の硝子戸を肘でたたきました。それだけではおさまらずカウンターの上に飛び乗ると厨房におりてきました。 「ゆるさない。ゆるさんからな」  重なり合ったプラスチックの弁当容器を投げつけ、調理器具を床や調理台にたたきつけ、そこら中を蹴ってまわりました。  壊すだけでなく、ついに包丁を手に取りました。鶏肉を切るときに使っていた肉切り包丁で、刃先に鶏肉の脂がついていたせいでテカテカと光ってみえます。 「おまえが悪いんだ。おまえが僕を傷つけたから、僕はこういうことをしなくてはいけなくなったんだ。仕方ないんだ。わかるだろう。月子さんのせいなんだよ」  斉藤は包丁を構えて一歩一歩月子に近づいてきます。月子は目を離さず、一歩一歩後ろにさがっていきます。
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