青空

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「斉藤さんをそんなに傷つけていたなんて、ごめんなさい」 「そうやって、あまい言葉を言って惑わす」 「そんなつもりじゃ……」  感情を高ぶらせた斉藤に月子の気持ちは届きそうにありませんでした。  このままでは危ない。月子が逃げだそうと裏口に身体を向けた瞬間、裏口から郷田が飛び込んできました。騒ぎを聞いて駆けつけてきたのでしょう。息を弾ませています。  入ってきた郷田はなにも月子には聞かずにじっと斉藤を睨んでいます。斉藤も口をつぐんで郷田を睨んでいます。 「シャッターに落書きをしたのはあなただね」  郷田は低くはっきりと言いました。斉藤は答えません。肯定もしませんが否定する素振りもみせません。  斉藤とくらべると郷田は歳をとっているせいもありますが、背も低く痩せていて弱々しくみえます。とても腕力では斉藤に太刀打ちできそうにありません。それなのに郷田は臆することなく斉藤と対峙しています。むしろ臆しているのは斉藤のほうのようでした。 「僕だけじゃなく、こんなジジイにまで色目を使っていたのか」 「ちがいます。郷田さんはそんな人じゃありません」 「この淫売、僕という男がいながら、前の旦那だけじゃ飽き足らず、こんなジジイにまで手を出していたなんて」 「だからちがいます」  理性の飛んだ斉藤は聞く耳をもちませんでした。言ったことをすべて悪い方に受けとりました。  握った包丁は手にひっついたように離れません。斉藤はなんども包丁を振り上げてはうなり声をあげましたが襲ってこようとはしませんでした。 「落ち着いてください。辛い想いをさせてごめんなさい。斉藤さんには感謝しているんです。でも恋愛の対象ではないんです。どうか気を静めてください」  月子はできるだけ優しく言ってなだめようとしましたが、月子の想いは斉藤の心をすり抜けていっているようでした。  そのとき店に入ってきた男が「おい」とドスのきいた声で言いました。竜一が店に戻ってきたのです。 「どうもおかしいと思ったんだ。月子が息子を引き取ってもらいたがっているなんて言うからな。なんだ、おまえは月子に気があったんだな。それで健太が邪魔になって俺に引き取らせようとしてあんなことを言ったんだな。つまらない嘘なんかつきやがって。子供を手離すわけがないだろう。それに健太をひきとったって月子はおまえのものになんかならないよ。こいつは男にはこりごりしているんだからな」 「うるせえ、課長の前の奥さんと知る前からずっと僕は月子さんのことを想っていたんだ。月子さんだって僕のことを憎からず思っていたはずだ。ただ子供がいたから迷っていただけなんだ。課長が子供をさっさと引き取っていたら、月子さんは迷うこともなかったはずだ」  斉藤は振り上げた包丁を月子にむけて襲ってきました。すぐに竜一がカウンターを飛び越えて斉藤の足首をつかんでひっぱり床に倒しました。握っていた包丁は手をはなれて郷田の前まですべってきました。郷田は包丁を拾い上げると奥の流し台に投げました。  倒された斉藤は急におおきな声をあげて泣きだしました。オン、オン、オンオンと子供のような泣き方でした。月子も竜一も郷田もあっけにとられ、ただ膝をついて泣き続ける斉藤を見下ろすことしかできませんでした。  数分後に斉藤が泣き止むと、竜一は肩をかして斉藤を起こし、そのまま黙って頭をさげると店をでていきました。足を引きずるように出ていった斉藤は、うつむいたままで店の外に出ても顔をあげようとはしませんでした。
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