青空

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 元ボーノ亭の店主は、わかい店主が訪ねてくるたびに機嫌が悪くなりました。 「商売はあんたが思うほど甘くないぞ。ここに来る暇があったら死ぬ気で働け。新しい店なんて一年もたたないうちに潰れるのが普通なんだからな。お洒落なんかに気を配っても、うちの月子さんの気はこれっぽちもひけないんだからな」と、言ったりしてなぜだか若い店主を月子から遠ざけようとしていました。嫌っているというより警戒しているという感じでした。  郷田は腎臓の病で透析を週三回するようになったということで、青空亭に顔を出すのは週一回になっていました。体調が思わしくないようで以前のようにから揚げ弁当を食べることもなくなり、月子の顔を見て話すだけになっていました。健太がいるときは健太にお菓子をあげたりしていたりして可愛がってくれましたが、元ボーノ亭の店主が働いていることは気に入らないようで話しかけもしませんでした。元ボーノ亭の店主も以前疑われたときの恨みが忘れられないらしく、郷田が来ても挨拶もしませんでした。 「わしも歳だから無理はできん。まだまだ若い者には負けないつもりだったが、お迎えがくるのも時間の問題かもしれないな」と、弱気な発言をすることが増えて、いつも顔は青ざめて息をするのもしんどそうでした。  郷田本人には聞けなかったので、月子は郷田がいない日に管理室に行って女性事務員に体調をたずねると「もう長くはない」と言われました。 「オーナーが亡くなったらビルを手放すことになっているんですよ。遠くの街に息子さんがいるんですけど、売りたいんですって。ある大手の不動産会社がビルの解体費用を負担してくれるんですって。なんでも新しく単身者向けの高級マンションを建てるそうよ。そうなれば一階に入っている弁当屋にも立ち退いてもらわなくてはならないって息子さんは言っていたわ。そりゃそうでしょうね。高級マンションの一階に脂っこい庶民の弁当屋なんて似合わないですものね」 「郷田さんはビルが壊されることを知っているんですか」 「まさか、知りませんよ。体調がよくないのに余計な心配をかけたらいけませんしね。どうかあなたもオーナーに余計なことを言わないようにしてくださいね。なにかいって体調が悪くなってはいけませんから、くれぐれも……」  女性事務員は煙草を吸いながらどこか勝ち誇ったように言いました。煙草は禁止のはずなのですが郷田が管理室にいない日は堂々と吸っているようでした。  口止めされるまでもなく月子は話すつもりはありませんでした。聞けば郷田はどう思うでしょう。悲しむだけでなく悔しがるのではないでしょうか。頭に血がのぼって倒れてしまっては大変です。月子は自分がビルを追い出されることよりも郷田の身体の心配をしました。うすうす無理とはわかっていましたが、一日でもはやく以前のように元気になってほしいと願うことしかできませんでした。 「あなたはビルが壊されたらどうなるんですか」  月子は足を組んでふんぞり返っている女性事務員に尋ねました。 「わたしは建て替えた新しいマンションで管理人として雇ってもらえることになっているんですよ。わたしのようなベテラン事務員がいると助かるんですって」  女性事務員は得意げに答えました。 「それは良かったですね」 「どうも……」  女性事務員は煙草を灰皿に押しつけてもみ消しながら答えました。それからバツが悪そうで月子と目を合わせようともしませんでした。嫌みで言っているのではないことが事務員の女性にも伝わったようです。
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