青空

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 竜一は妻から暴力を受けていると言いつつも、どこか幸せそうでした。思い返せば月子は言葉の暴力を受けた時でも抵抗したりやり返したりはしませんでした。青空のように家庭を明るくしていたいという想いから、いつも笑顔で耐えているばかりで逆らわなかったのです。やめるように懇願することはありましたが、それはあくまでも懇願であって戦ったわけではありません。もし竜一から暴力を受けたとき必死に抵抗して真剣にやり返していたら別れることにはならなかったのかもしれません。暴力で争うことは否定しなければなりません。しかし暴力を受けて耐えることも否定しなければならないのではないのでしょうか。聖人であろうとすることは正しくても、正しくないふるまいも肯定しなければならないのではないでしょうか。『もし……』という仮定がありえないことはわかっていましたが、月子は考えずにはいられませんでした。竜一がしたことが許されることではありませんが、もし恐れずに戦っていたら、気持ちをぶつけていたら、たとえ同じように別れることになったとしても、針でさされたような傷みを竜一に会うたびに感じないでいられたのではないでしょうか。本当の青空を私はまだ手に入れていない。……そんなことを月子は思うようになっていました。 「なんだか幸せそうですね」  心から月子が言うと、竜一は照れてはぐらかすようなこともなく「ありがとう」と素直に答えました。そして「月子も幸せそうだよ」と言いました。月子は胸がいっぱいになって唇をかみしめました。  母が生きていたら今の月子を見てどう思うでしょう。青空のように生きている、といって褒めてくれるでしょうか。それともまだまだほど遠いというのでしょうか。月子はこのごろ母のことを思い出すことが多くなっていました。自殺という最後を迎えたにもかかわらず、思い出すのは母の笑顔でした。泣いた顔、苦しそうな顔、悲しそうな顔、辛そうな顔はひとつも思い浮かんできませた。そんな母の顔を思い出す度に、母から幸せを与えられていたんだとしみじみと思うのでした。私も幸せを与えられる人になりたい。与えることが幸せであると信じたい。心ではそう思ってもそれをなかなか実行できるものではありません。月子はせめて青空のように明るくいることだけは忘れないようにしようと、強く思うのでした。それが亡き母への供養にもなると信じていました。  今日も月子は忙しく働いています。ビルとビルに囲まれたオフィス街の底で懸命にいきています。未来は明るいのか暗いのかなんてわかりません。一寸先は闇なのかもしれません。半年後にはビルを追い出されているでしょう。追い出された後のことはまだなにも決まっていません。青空亭はどうなるのでしょうか。これから決めていかなければならないことはたくさんあります。月子に言えることはひとつ「澄み渡った青空のような気持ちで毎日を過ごしていく」ただそれだけです。毎日を必死に過ごし、日々新しいことが起こる街で溺れてしまわないようにもがきながら進んでいくだけなのです。青空とは何か、その答えを探し続けながら……。 「いらっしゃいませ。今日はから揚げ弁当がお安い日ですよ」  月子の澄んだ声は青空亭の外まで響きます。昼時になれば今日も店の前には弁当をもとめる客の長い列ができるでしょう。汗をふく間もないほど忙しい時間がやってきます。  月子は脇目もふらず弁当を作りつづけます。青空亭のはるか上には本当の青空が果てしなくひろがっています。そのなかに淡く白い月がぽっかりと笑うように浮かんでいました。
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