青空

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 この日も月子は朝から弁当の仕込みに追われていました。六月の梅雨の時期でしたがこの年は雨がすくなく店の中がじめじめとすることもありませんでしたので仕事ははかどっていました。月子の店には従業員はいません。アルバイトを雇えるほどの余裕はありませんでしたので、なんでも一人でやらなければなりませんでした。  青空亭はオフィス街のなかにある弁当屋なので昼によく売れます。午前十時をすぎると近隣の企業から弁当の予約の電話は入ってきますし、昼休みの時間に入る前から徐々に客足は増えてきます。昼時の混雑がはじまる前には下準備を終えていなければなりません。欠伸をしたり茶を飲んだりする暇もなく働きつづけなければなりませんでした。 「来週から向かいのビルに新しい弁当屋がオープンするんだってね」  レジスターを置いているカウンターの向こうから郷田が話しかけてきました。レジの機械は中古で何世代も前の機種で、木製のカウンターは事業者専用のリサイクル会社から購入したものでした。あちらこちらに傷がついていましたが汚れは落とされてきれいに磨かれていました。  まだ午前十時前でしたので客の姿はなく電話も鳴っていませんでしたが、月子は厨房で手を休めることもなく働いていました。 「そうらしいですね。このまえ常連のお客さんが教えてくれたんですけど、なんでもあちらはフランチャイズ店みたいですね」 「東京から進出してきたんだろう。ボーノ亭という名前だったかな。イタリア語でおいしいという意味だろう。気取ってイタリア語なんか使わないで、美味しい亭にすればいいのにな。なんでも横文字にすればいいってものじゃないよ」 「すてきな名前じゃないですか」  月子は腹を立てている郷田のようすがおかしくて笑いました。 「わざわざ青空亭の目の前に弁当屋をつくるなんて、これは宣戦布告だな。ここの客を奪うつもりなんだよ」 「それはたいへん。わたしもがんばらないといけないですね」  厨房の奥でキャベツを切りながら月子は答えました。包丁を入れるたびにキャベツの甘く湿った香りが鼻腔を抜けていきます。 「わしはここでしか弁当は買わないから安心していいからな。絶対にあっちの店では買わない。ビルのテナントにも買わないように言っておいてあげるから」 「お気持ちはうれしいですけど、お客さんの選択肢がふえることはいいことですから。どうか郷田さんも気楽にあちらのお店の弁当を買ってください」 「やれやれ、あんたは本当に商売にはむかないよ。よその店の客を奪い取るくらいのつもりでいないと、商売はやっていけないよ」  郷田は呆れたように言うと、首をふりながら店をでて管理室に戻っていきました。  昼時が過ぎたころ、郷田はまたやってくるでしょう。郷田は気をつかって店が空いている時間帯を見計らって弁当を買いにきてくれるのです。なにも用事がなくても郷田は午前中に一回はやってきて、午後に弁当を買いにやってきて、暇な時は夕方過ぎにもやってきては月子と話をしていくのでした。
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