青空

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「なに、月子さんのためなら不動産屋なんていつだって辞めますよ。仕事よりも月子さんとの関係の方が僕には大切です。それに夫婦になれば良いも悪いもないですから」  斉藤は腕利きのセールスマンのようにぐいぐいと月子に迫ってくるのですが、月子はあまり気が進みませんでした。斉藤のことが嫌いというわけではありません。上得意の客だし、身なりもきちんとして紳士的です。顔だって整っているほうだし、性格も社交的で明るい。なによりも月子のことを好きだと言ってくれます。バツイチで独身の月子には申し分のない相手のように思えます。ただもっとも肝心な恋愛感情がわいてこなかったのです。  それは斉藤のことをよく知らなかったからかもしれません。青空亭以外ではあった事もありませんし、近所の喫茶店で話をしたこともりません。どこに住んでどういう生活をしているのか、月子と同じように離婚歴があると話していましたが、どうして別れてしまったのかなど知らないことが多すぎるのです。  食事にはなんどか誘われましたがすべて断りました。店が忙しかったこともありますが、息子の健太と過ごす時間をたいせつにしたかったからです。相手を知るためにもデートをすればいいのかもしれませんけど、それをしてまで斉藤のことを知りたいとは思いませんでした。もし知れば気持ちも変わっていくかもしれませんが、気持ちを変えてまで恋愛をしようとは思わなかったのでした。  斉藤は月子のどこを気にいったのでしょうか。店で働いている姿しか見たことがないでしょうし、身の上を語ったこともありません。つまり斉藤は月子のことをなにも知らないはずなのです。知らないのに結婚を前提に付き合いたいなどと言うものでしょうか。男性の心はよくわからない。豊富な恋愛経験でもあれば男の心というものをもっと理解できたのかもしれませんが、月子は別れた前の夫の竜一しか知りませんでした。竜一を男性一般として参考にするのは難しかったですし、性格も斉藤とは違います。月子は正直、斉藤にどう対応していくのが正解なのかわからず三か月の間戸惑いつづけていました。  竜一と離婚した理由を話そうかと思ったこともあります。話せば付き合うことに消極的な理由を理解してくれるかもしれないと思ったのです。ただ理由は簡単のようで複雑でした。竜一からDVを受けたから別れたと一言で言えばいいのかもしれませんが、そんな一言で済むような単純なことではありませんでした。外の他人から見ればDVではなく、ありふれた夫婦間の喧嘩だというかもしれません。性格の不一致、縁がなかったと判断されるのかもしれません。夫婦のことを説明することは難しいのです。月子は別れた理由を話すことで、一方的に竜一のことを非難することにならないかと心配していました。あまりに不公平だし、もし過剰に悪く言ってしまったら竜一に対して申し訳ないという気持ちがありました。だから月子はこれまで誰に聞かれても「いろいろとありまして……」と答えをにごして答えてばかりいたのでした。  恋愛や再婚に対しての不安もあります。健太のためにも父親は必要だと思っていますが心は追いついていきません。常に晴れた青空のように明るく前向きに考える月子でしたが、こと恋愛のこととなると曇り空の先にある青空のことを忘れて後ろ向きになるのでした。 「もうすこし考えさせてください」
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