06 ビジュツカン

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 その日の三時間目。  終業のチャイムが鳴った。クラスメートが廊下に出たり談笑したりと各々の動きを始める。  僕は、日直の仕事に取り掛かるため、立ち上がって黒板の方へ向かった。    チョークの粉がかからないように、ブレザーの袖をまくる。  先生が書いた白い文字に黒板消しを当てようとした時、 「あ、篠崎くん」  右手の方から僕を呼ぶ声がした。  そこにいたのは、クラスメートの笹山(ささやま)さん。  前髪をきれいに切りそろえた黒髪ボブショート。キリッとした一重まぶたの目。  物静かで、どこか浮世離れした雰囲気。    「ササヤマ」と「シノザキ」は五十音で隣同士なので、僕らは日直のパートナーだ。 「さっきの休み時間も消してくれたよね、ありがと。今度は私やるから、いいよ」 「わかった、ありがとう」  一緒に消すという選択肢は、僕らの間にはない。  僕は黒板消しを置いて、席へ向かう。  クラスの女子とは事務連絡くらいしか言葉を交わさない僕。日直パートナーの笹山さんも例外ではない。  例外ではないどころか、言っちゃうと、僕は笹山さんのことが少し苦手だ。  中学校で同じクラスになって半年以上経つわけだけど、どう接したらよいのか、未だにうまくつかめない。  笹山さんが僕のことをどう思っているのかは知らないけど、とにかく、僕らは作業に必要な最低限のやり取りしかしなかった。  日直の仕事は、毎回完全分業だ。  仕事をする必要がなくなった僕は、自分の席に戻り、次の授業の準備を始める。 「数学に使うのって、この二冊で合ってるよね?」  この学校で初めて数学の授業を受ける水島くんが、机の上の教科書とノートを指差しながら聞いてきた。 「うん……あ、オレンジ色のワークも持ってる? あれもときどき使うんだよね」 「あ、確かあった気がする」  水島くんが、カバンの中を漁る。つやつやした、ちょっと高そうなキャメルブラウンの革製トートバッグ。このアイテムがこんなに似合うのは、学校中探しても水島くんくらいだろう。 「これだね!」  B5サイズのワークを取り出して、僕に見えるように掲げる。 「そう、それそれ」  水島くんの机の上に、必要な教材が一式揃った。 「ありがとう、篠崎くんが隣の席で良かったよ! 親切で、質問しやすいから」  整った歯並びを見せて上品に微笑む。  首元でピシッとネクタイを締めた姿は、中学生というよりはエリートビジネスパーソンのように見える。僕や周りのクラスメートと同じ服装なのに。 「あ、えっと、それはどうも」  水島くんと同じセットを机の上に出しながら言った。  褒められるのはまだ苦手だけど、以前よりは少しずつ、内容のあるリアクションを取れるようになってきた。  取れるようにならざるを得なかった。あのフォルテ女子のせいで。 「水島くん、物知りだね。先生の質問にどんどん答えられて」  水島くんは登校初日から大活躍だった。  三時間目の社会の授業では、教科書の範囲の問題だけでなく、先生が息抜きに出したマニアックな雑学クイズも、ひとりだけ全問正解していた。 「母がヨーロッパの歴史や美術が好きでね。その影響で、小さい頃から歴史の本を読んだり、美術館に行くのが趣味なんだ」 「そうなんだ。すごいなー」  ビジュツカン。  僕のような学のない一般庶民中学生には、生活実感を伴わない空虚な音として響く単語。 「よかったらさ、篠崎くんも今度一緒に美術館に行かないかい?」 「え?」  脳内でぷかぷかと浮かんでいた「ビジュツカン」という音が、突然密度を高める。 「きっと楽しめると思うんだ。土日の予定合うところで、どうかな?」
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