01 だから、気づかなかった

1/1

20人が本棚に入れています
本棚に追加
/106ページ

01 だから、気づかなかった

「明日は絶対来いよ、わかったな?」  片桐(かたぎり)先生の重たい声。  キュッと腕を組む仕草は、遠隔で僕を羽交い締めにしているかのよう。 「篠崎(しのざき)も、日々練習を積み重ねれば団体戦に出られるはずだ。なるべく休まないように」  自分のラケットだけ気体でできているんじゃないか、そう疑うくらいボールがラケットに当たらない僕にとって、先生の励ましには全く現実味がない。 「はい、すみません……」  僕は一礼すると、そのまま先生と目を合わせないようにして、職員室を後にした。  部活をサボる言い訳のレパートリーがそろそろ苦しい。体調不良、親戚の法事、課題……。  卓球部の練習に行かなくなってから一週間と少し。さすがに怪しまれている様子だし、そろそろ行った方がいいのかな。  はあ。  正門に近づいた僕に、強い向かい風が襲いかかった。  十一月のひんやりとした風。「今ならまだ引き返せるぞ。練習に参加しろ」と警告しているみたいだ。  肌寒い説教を無視して、僕は校舎から足を踏み出した。  正門前の信号が青になり、信号待ちをしていた人たちが、一度に歩き出す。  部活を引退した三年生や帰宅部が三々五々と談笑しながら歩く中、僕はひとりスタスタと足を動かした。  横断歩道を渡り切り、左に曲がる。 「お腹すいたー ちょっと寄ってかない?」 「賛成! ハンバーガー食べたい!」  前を歩く女子ふたり組の陽気なやりとり。うちひとりは、たしか僕と同じクラス。名前は……なんだっけ……ワタナベさんだったか、ワタベさんだったか、忘れちゃった。  中学校に入学してもう半年ほど経つわけだけど、未だにクラスメートの顔と名前が怪しい。  でも、それはお互い様だ。  あのワタナベさんだか、ワタベさんだかにも、以前「シガラミくん!」と呼ばれたことがある。僕の苗字の読みは「シノザキ」だ。「シ」しか合ってない。  確かに、いろいろとしがらみの多い人生ではあるけどさ。  女子ふたり組が右手の方のファーストフード店に吸い込まれていって、道が開けた。  前の人にペースを合わせる必要がなくなって、僕は足を早める。  なるべく早く、学校を離れたい。  学校から五つ目の信号を渡って少し歩くと、右手の方に、石畳の階段。  四十段くらいあるそれを、ひいひい言いながら登る。体力のない僕には、これだけで一苦労だ。  残り数段となったところで、目の前の景色が灰色から青色に変わる。  着いた。  校門から歩くこと三十分弱。  見上げれば広がる、澄み渡った空。  目線を下げれば、群青色の川が流れている。  ここは、枝杜川(えとがわ)河川敷。  このあたりの住民の憩いの場であるとともに、関東圏の穴場観光スポットともなっている。  足元には、さっき登ったのと同じくらいの段数の階段。  階段を降りきって、柔らかい芝生を歩き、やがて川岸にたどり着いた。  川岸は、コンクリートでできた五段ほどの階段になっている。  僕はその一番上で腰を下ろし、スクールバッグを左手の方に置いた。  ファスナーを開き、中からペンケースとA4サイズのスケッチブックを取り出す。  部活をサボり始めてから、ほぼ毎日ここに来ては絵を描いている。  最初は、ぼーっと河川敷を眺めていた。  なんとなく、それだけじゃ物足りなくなって、スケッチを始めた。  最初は、使い切った数学ノートの表紙の裏に。  次の日は、入れっぱなしだった用済みのプリントの裏側に。  三日目、どうせならと思って、使っていなかったお年玉でスケッチブックと色鉛筆を買った。  そうして毎日、川岸から見える風景を描いている。  別に絵を描くのが好きってわけじゃないけど、部活をサボっている間の時間を潰すのには、ぼーっと風景画を描くのはちょうどよかった。  下書きが終わり、ペンケースから色鉛筆を取り出した。  よく研いだ水色の色鉛筆を寝かせて、力を入れすぎないようにしながら、手首を左右に動かす。  白い画用紙に少しずつ色が浮かび上がり、やがて今日の空そっくりの澄んだスカイブルーが現れた。 「ふっ、ふっ、ふっ......」  すぐ後ろから、ランニング中の人——声からしてたぶん中年男性——の息遣いが聞こえる。 「じゃあさ、今度そこ行こうよ!」 「行こ行こ!」  さらに後ろから、若い女性数人の楽しそうな会話。  顔も名前も知らない人たちの声が、そよ風のように僕の背中を通り過ぎていく。  ここの河川敷にいる人たちは、僕にとってはみんな「風景」。  僕の周りを取り囲んでいて、それでいて僕に関わってくることはない音。  その一つひとつにいちいち耳を傾けることはなかった。  だから、気づかなかった。 「何してるの?」  斜め後ろから近づいてくる人の気配に。  スケッチブックに黒い影が落ちたことで、僕はすぐ後ろに人が立っていることを悟る。  振り返ると、そこには知らない女の子。  じーっと、僕の手元を覗き込んでいた。
/106ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加