02 私はすっごく好きだよ!

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02 私はすっごく好きだよ!

「べ、別に!」  反射的にスケッチブックを閉じる。 「絵を描いてたの? 見せて!」 「ちょっ!」  返事をする隙もなく、女の子が僕の手からスケッチブックを奪い取った。  いったい何のつもりだろう?  新手のカツアゲとかだったらどうしよう……。  そんな僕の心境にはお構いなく、女の子は、スケッチブックをめくっては一枚一枚を食い入るように見つめる。  一旦抵抗を諦めた僕は、改めて目の前の女の子の姿を見てみた。  うちじゃない学校の制服だ。上下ともに濃い紺地のセーラー服。襟元と袖口に白い線が三本ずつ。胸元には、光沢のある鮮やかな緑色のリボン。  外側に軽くハネた肩ほどの長さの髪が、風に吹かれてふんわり揺れている。 「きれい!!」  数ページめくったところで、女の子がぱーっと顔を明るくしながらそう言った。 「これ、全部君が描いたの?」 「えっと……はい。ただの暇つぶしですけ……」 「すごいね! すごいすごい!」  飛び跳ねるような声で僕の言葉を遮りながら、次々とページをめくり、ときどき手を止めては顔を輝かせる。 「これめちゃくちゃいい!」  女の子が、スケッチブックを僕の方に向けた。  数日前に描いた花の絵だ。川岸に向かう途中で咲いていたアカツメクサ。  確かに、自分の中ではよく描けた方だと、僕も思う。  だけど、 「別に、それくらい描ける人はいっぱいいますし」 「そうなんだー 絵の世界は厳しいんだね! でも……」  アカツメクサの各部位をくるくる回っていた瞳が、ふいに僕の方に向けられた。 「私はすっごく好きだよ! この絵!」  人に絵を見せた(というか見られた)のは、いつぶりだろうか。  普段、自分が描いたものを人に褒められるという経験がなくて、反応に困る。  女の子の視線が、僕からふたたびスケッチブックに戻った。  僕はそのまま無言で、ぼーっと女の子の様子を観察した。  ふと、セーラー服の胸ポケットのエンブレムが目に入る。金色の刺繍、盾型の枠の中に、厳粛な自体で『寅中』という文字。  この子、寅中(とらちゅう)の生徒か。  寅中こと寅島(とらしま)中学校は、僕が通う酉ヶ丘(とりがおか)中学から東にしばらく歩いたところにある。  この河川敷まではたぶん徒歩三十分と少しの距離。僕の学校から河川敷までよりもやや遠いはず。  あえてここまで来るってことは、この子も僕と同じで部活をサボってたりとかかな。  ……もしかして、ヤンキーだったり?  もし、「返してほしければタバコを買ってきて!」なんて言われたら、スケッチブックを見捨てて全速力で逃げよう。  そんなことを考えていたら、一通り目を通したらしい女の子が、僕の顔を見た。  オレンジの皮みたいに柔らかく曲がった二重まぶた。薄桃色の唇の奥で、今日の雲よりも白い歯がきれいに並んでいる。 「見せてくれてありがと! すごく素敵な絵を描くんだね!」  そう言いながら、僕にスケッチブックを返してくれた。  とりあえず、違法行為に巻き込むつもりはないようで、ほっとする。  そのお礼に、「見せたんじゃなくて、あなたが勝手に見たんでしょう」というツッコミは口に出さないことにした。 「私、柊遥奏(ひいらぎはるか)! その制服、君、酉中(とりちゅう)の人? 名前は?」 「あ、はい、酉中一年生の篠崎秀翔(しのざきしゅうと)です。よ、よろしくお願いします」  緊張して、無駄に改まった自己紹介をしてしまう。 「秀翔ね! よろしく!」  出会って数十秒。いきなり下の名前で呼ばれた。距離感の詰め方が、明らかにおかしい。  でも、僕がほんとに面食らったのはここからだった。 「ねえ」  柊さんが、かがんで僕の顔を覗き込んだ。  大きな瞳の中に、僕のうろたえた顔が閉じ込められる。  長い黒髪が前に揺れ、僕の頰をかすめた。 「今から私ここで歌うから、聴いててね!」
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