02 私はすっごく好きだよ!

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「え?」  突拍子もない言葉に、思わず腑抜けた裏声が出る。 「私ね、歌の練習したいんだけど、今日はどこも人がいっぱいで」  軽くあたりを見回してみた。言われてみれば確かに今日は、平日真っ只中の水曜日としては、人が多い。 「だから、私ここで歌う! スケッチしながらでいいから、聴いてて!」  聴いててって。  それで、僕に何を求めているんだろう……。  よくわからなかったけど、僕に話しかけるのをやめて「風景」の一部に戻ってくれるのであれば、僕としても都合がいい。 「あ、はい、大丈夫です」 「タメ口でいいよ! 遥奏って呼んでね!」  そう言うなり柊さん——じゃない、遥奏は、僕の右斜め前、川のすぐ近くまで歩いた。  お腹に手を当てて、発声練習のようなことを始める。  同年代の知らない女の子に突然後ろから話しかけられ、スケッチブックをぶんどられ、顔を鼻先まで近づけられて。  心臓がばくばくしていた僕は、すぐにスケッチに戻る気分にもなれなくて、右斜め前の横顔をぼーっと眺める。  遥奏が、目を閉じてゆっくりと息を吸い込んだ。  さっきまでの能天気な笑顔と打って変わった真剣な表情に、思わず目を離せなくなる。  遥奏が、目を開けて、歌を歌い始めた。  途端、あたりの空気が変わった。  繊細、かつ、懐の深い歌声。  強引に他人のスケッチブックを奪う彼女の姿は、そこにはなかった。  真っ暗な洞窟で彷徨う人にそっと手を差し伸べ、陽の当たるところに導くような。  そんな、優しい歌声。  声の主がいる位置は、教室で言えば三つ前の席くらい離れた場所。  それなのに僕は、耳元で優しくささやかれたような感覚に包まれる。  曲が、サビらしき部分に移った。  遥奏の口元から解き放たれた高音が、天に向かって迷いなく突き進む。  伸びやかな歌声と共鳴して震える、僕の心臓。  メロディーを乗せた冬風が、制服の繊維を通り抜けて皮膚を温める。  しばらくの間、僕は絵を描くどころではなかった。
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