もう帰らないで

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「ねえ、たまには外に出てランチしよう?」 高校の時の友達が久しぶりに誘ってくれた。私はすっかり専業主婦として家にいるようになり、のんびり夫の帰りを待つ毎日を過ごしていた。夫に抱かれることはないけれど、それを不満にも思わない。私は仁君と抱き合ったのを最後に誰とも寝ていなかった。 それでももう、あの頃の様な乱れた生活に戻ろうとは思わない。 友達と街中に出てウインドウショッピングを楽しんだ。 「久しぶりだなー、こうやって雑貨見たりするの楽しいね」 「サラは元々器用なんだからさ、お菓子作りだけじゃなくて、色々作ってみたら」 そんな事を言われた。そうか、私色々作るの好きだったっけ。 「そろそろランチ行かない? 最近新メニューが出た所があるからそこ行こ!」 友達がぐんぐん進んでいく。この通りはジンカフェその3がある。まさか、行かないよね。 「ここだよー!」 いやな予感は当たり、友達が開こうとしていたのはまさにジンカフェその3のドアだった。でも、仁君は本店勤務だから。そう思ってうつむきながら店に入った。 「ここに来たらいっつもハンバーグじゃん? 美味しいんだけど、ほら、新メニューで麺類があってね……」 店員さんさながらに友達がおススメしてくるから思わず笑ってしまう。 「そんなに推すならそれにしてみようかな」 パッと見た感じ、若い男の子と女の子がホールにいて、仁君はいないみたいだった。ああ良かった。それに、きっと髪型を変えた今の私には気づかない。真っ黒のボブ。雰囲気があの頃とは全く違うもの。 友達と楽しく話しながらランチをした。 会計を済ませお店の人にごちそうさまと言ってカフェを後にした。 午後は人が多いな。人混みの中をしばらく歩くと、ぐい、と腕を掴まれて引っ張られる。 「きゃ……!」 「サラ」 誰かが私の名前を呼んだ。離れてしまった友達が人混みに消えるのに三十秒とかからなかった。 「誰⁈」 返事がない代わりに、その腕の中はコーヒーと懐かしいその人の匂いがした。 「ジン君?」 「そうだよ」 「どうして?」 「店で見たから」 私が見た時は仁君いなかったのに……。そう思っている間に、彼はどんどん私を引っ張っていく。 「乗って」 街角の駐車場に着くと、彼は大きな四駆の助手席のドアを開けた。 「ジン君……」 「話があるんだ。乗って」 初めてだ、仁君から話があると言われるなんて。 話があると言ったのに、仁君は何も話さない。 「ジン君、どこに行ってるの?」 「僕の部屋」 「待って、私もう……」 もう仁君に会わないって決めたの、と言おうとしたのに、赤信号で逃げる間もなく唇を塞がれて黙らされた。 「……話があるって言ってるだろ」 口調と顔が怒ってる。こんなに強引な人だったろうか。いつだって、途中で言いかけたことを止める人だったのに。 車をカフェの駐車場に停めると黙って私を引っ張って階段を上がる。掴まれた手首が痛いぐらいに強く握られていて、私はいつもと違う仁君にどうしていいかわからなかった。 彼は乱暴に私を玄関に放り込むと、後ろ手にドアの鍵を閉めた。 「サラ、会いたかった」 言い終わらないうちに仁君は私を抱きしめた。 「どうして、来なくなったの? 待ってたのに……」 理由を言うことはできない。絶対に。 「……俺が嫌いになった? それとも俺より気持ち良くしてくれる男ができたの?」 黙っていると、私の顔の輪郭を人差し指でなぞりながら柔らかく低い声でゆっくりと訊いてくる。そんな声で訊かないで。 「違うよ。もう、ああいうことは続けてちゃいけないって思っただけ……」 「アプリで男漁りするのもやめたの?」 「……そうよ。やめたの。今は真面目に主婦してるよ。だから、離して。軽蔑するような女と会ったってあなたも何にもならないでしょう?」 私は感情を入れないように静かに言ったつもりだったけど、語尾が震えた。 「……嫌だ」 そんなの訳が解らない。 「どうして? 離してよ……!」 「嫌だ。そんな女でも好きなんだ、サラ」 仁君はきつく抱きしめたまま部屋の中へ私を連れて入った。もつれるようにソファに倒れる。キスをしないと息ができないみたいに、息を切らせて。 「ね、ジン……待って」 「待たない」 こんなに聞き分けの無い仁君は初めてだ。いつだって、そうかわかった、とかふうん、って全部流す人なのに。 何がどうなっているのかわからない。 「もう帰さないから」 「え⁈」 「君のダンナのとこには帰さない。聞いてるだろ?」 返事もできずに、私は彼の唇と舌に呼吸を奪われた。気持ち良くて、酸欠で、気を失いそう。言い返して彼を突き飛ばさないといけないのに、そんな力はどこにも残っていなくて。 私は馬鹿だ。 同じことを繰り返したくないのに、抵抗できなかった。 だって、 「愛してる」 なんてもう随分誰からも言われてなかったから。 今は、何時だろう? まだ日が差しているけれど、黄味がかった色だから夕方だろうか。 仁君が私を好きだと言っただけで、何一つ話はできていなくて、何も変わっていない。 彼の腕から抜け出そうとずるずると身体を動かしたけれど、ベッドから降りる寸前で腰を掴まれた。 「……どこ行くの」 振り向くと綺麗な顔の目元に色の抜けた前髪が分厚く被さっていて、とても鋭い視線に見える。私を散々好きなようにしたばかりなのに。まだ獲物を狙う肉食獣みたいな目。 「し、シャワー浴びたくて……」 「一緒に浴びようよ」 シャワーを浴びて浴室から出て、私はさっさと服を身に付けようとした。 「帰さないって言った」 仁君は濡れたまま、また私を引き寄せ抱きしめた。 「無茶なこと言わないで……」 「ねえ、僕は好きだって言ったよ。サラは僕のことどう思ってるの」 せっかく身に付けた下着が、仁君の身体の水滴を吸って濡れていく。 「そんなの、言っても意味ないよ……」 口に出したところで、どうなるというんだろう。 「さっきは泣きながらそれが好きって言ったろ? 僕自身は? ねえ、ちゃんとこっち向いて」 見上げると仁君は優しい顔をしている。 「ねえ、サラ、好きって言って」 「ジン君、だめ……」 「僕のこと、好きって言ってよ」 何の話もしていない。また身体を重ねただけなのだから、好きと確認しあったって何の意味もない。きっと無いのに。 なのに私は、彼が好きで離れたくないなんて。 彼の手は私の顔に張り付いた髪を、丁寧に耳元に寄せていく。私には夫がいるのに。でも今好きなのは、ずっと好きだったのは、目の前のこの人。 涙と一緒に気持ちが溢れた。 「……好き。ジン君が、好き……」 泣き出した私とは反対に、仁君は私の頬を両手で包んで満面の笑みを見せた。 「久保社長に連絡しよう。もう帰らないで」 仁君はスマホを手にして、何年経っても私が社長としか呼べなかった夫に電話を掛けた。 その日から、私は社長と住んだ前の家に帰っていない。
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