ありふれた殺人

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 ジョエル・クラウスとの出会いは私が黄色のパーカーの男と会話をした、すぐ翌日のことだった。  また彼に会いたい。遥か昔に忘れたはずの恋心のせいで、私はどこか浮ついていた。町までのランニング中、足元に転がっていた石に気づかず、私は足首を挫いてしまった。  しかし私は走る前にストレッチを欠かさず行っていたし、それほど大したことないだろうと再び走り出した。  だが町に着く頃には衣類の上からでもわかる程に腫れ上がっていて、冷や汗が出て、目の前がチカチカしてきた。  これは一大事だと思い、私はそのまま町医者に駆けこんだ。私は病院嫌いで多少の風邪くらいでは寄り付こうともしなかったが、このままではまともに帰ることすら難しい。だから山奥に引っ越してから初めてその町医者を訪れたのだ。  待合室に客はほとんど居らず、私はすぐに呼ばれ診察室へ通された。対面した医者は意外にも若い男だった。 「こんにちは、今日はどうされました?」  どこか品のある、落ち着いた低い声だ。 「恥ずかしながら、足首を挫いてしまって――」  私は医者の顔をまじまじと見つめてしまった。彼はこんな田舎町には似合わない美青年だった。  意志の強そうなキリリとした眉、完璧なまでのアーモンドアイズ。瞳は深海のようなブルーグレイ。形の良い鼻梁。厚めの唇。ブルネットの髪は男らしく短く整えられ、しかしながら天然物であろう癖っ毛が、たまらなく私をときめかせた。 「失礼。痛むと思いますが、少し触りますね」  彼が処置を施している間、私はぐっと目を閉じ、彼を視界に入れないよう努めた。彼の手で湿布が貼られ、上から包帯で締め上げられると、こんな時なのに股間がむず痒くなり、私は自分を恥じた。 「――ヴァン? ドノヴァンさん?」 「は、はい……」  慌てて彼の方を見ると、おそらく全ての患者を安心させるであろう、とびきりの笑顔を私に向けた。 「幸い軽傷のようです。二、三週間ほどで元通り走れますよ。ただ、それまでは安静に。治るものも治らなくなりますからね。一週間分鎮痛剤を出しておきます。夕食後に服用してください。経過を診たいので来週また来てくださいね」  安静にと聞いて、私の脳裏に浮かんだのは黄色のパーカーの男だ。彼をしばらく見ることができなくなってしまう。  だがそれよりも、私は目の前の美しい医者の虜になってしまった。少しでも何か話して仲良くなりたい。特に話題は無かったが、何か質問をするように私は彼に声をかけた。 「あの、先生……」 「先生はやめてください」 「では何と?」 「実は私……いや俺はあなたの大ファンなのです。カルテを作るときにまさかと思ったのですが、実際にお会いして気づきました」 「私の……?」  信じられない事態に開いた口が塞がらない。 「ダニー・ドノヴァン先生ですよね? 本名はダニエル。俺の親戚と同じ名前ですね。まさかあなたに逢えるなんて、何という幸運だ。失礼かもしれませんが、これを機にあなたをダニーと呼んでもいいですか? 申し遅れましたが、俺はジョエル・クラウス。俺のことは是非ジョエルと呼んでください」 「ジョエル?」 「そう。『213号室の食人鬼』のジョエルです」  ジョエルなりのジョークだったのか、彼は見事なまでのウインクで私に答えた。  ともあれ懐かしい作品をよく覚えていたものだ。  ジョエルという男を主人公に描いた『213号室の食人鬼』は、私が三十代の頃に執筆した作品だ。実際の猟奇殺人鬼を元に書いた本は、一時期のブームの際はメディアに取り上げられたが、それ以降音沙汰なし。  私自身も忘れかけていた作品を、私のファンだと名乗る見目の良い若い医師は覚えていてくれたのだ。 「もちろん他の本も集めていますが、俺は213号室が一番好きです。何より、俺が主人公のようなものなのでね」  自然とジョエルの口調が砕けてくる。初めて会った男なのに、ここまで親密になれるとは。私の作家人生も無駄ではなかった。 「ありがとうジョエル。君のようなファンに出会えて嬉しいよ」 「こちらこそ、ダニー。でも薬は欠かさず飲んで、きちんと安静にしているのですよ? いくらあなたが私の尊敬する作家でいようと、ここにいる以上は私の患者なのでね」 「ははっ、その通りだ。君の言う通りにするよ、クラウス先生」 「ところでダニー? この後の予定は?」  まるでデートの誘いのようなジョエルの言葉に、私はただ首を横に振ることしかできなかった。
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