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「え、嘘でしょ」
夏樹は嘘じゃないよ、と腕に掛けたジャケットの胸ポケットから一枚の名刺を取り出した。そこには確かに『猫本建設工業㈱本部 営業部主任 友川夏樹』と書かれてあった。両手で受け取ってマジマジと見る。わたしは額に指を当てた。
「いつからいるの?」
「こっちに来たんは四ヶ月前かな。もともと新卒で五年前から広島の支社に居って、異動で来た。春香は中途じゃろ? 俺の方が先輩じゃ」
威張られてイラっとする。過程を知らないくせに、中途だとバカにされる世の中はどうかしている。
「……いつわたしに気付いたの」
苛立ちが声にならないよう努めて冷静に訊く。夏樹は全く気付くことない様子で話し始めた。
「それがさぁ実は今日初めて知ってさぁ。営業部って二階じゃろ? 四階の経理部って今まで行ったことなくてさ。今日どうしても清算してほしい領収書があったけぇ行ったわけよ。そしたら、見たことある人が居ってさ、声掛けようかと思ったんじゃけど、なんか忙しそうじゃったし、経理部の人に聞いたらやっぱり井上春香って言うけぇさぁ。帰る前に経理部覗いたらまだ居ったけぇ、出待ちしちゃった」
にへら、と笑う顔面にパンチが出そうになった。その人懐っこい笑顔はやめて欲しい。わたしはカバンの中からスマホを取り出した。
「……もしもし警察ですか? 今、目の前にストーカーがいるんですけど」
「わーっ! ごめんってお尻の夏の大三角喋ったこと謝るけぇ!」
「それだけじゃないんだけど!」
わたしはスマホをカバンに仕舞いながら、「で、何か用があって待ってたんじゃないの」とため息をついた。いつから待っていたのかは知らないが、出てくるまで待つということはよっぽどわたしに用があったのだろう。すると夏樹は急に眉尻を下げた。
「……腹減った」
「は?」
「飲みながら話そ?」
「え、ちょっと」
夏樹はわたしの返事を聞く前に歩き出してしまった。慌てて追いかける。
この時、何故追いかけてしまったのか分からない。「行かない」と帰ることも出来たのに、わたしは彼の後を付いて行った。無意識だろうがわたしの行動には変わりない。夏樹の背中を追いかけながら「大きくなったなぁ」と近所のおばちゃんみたいなことを思った。
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