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プロローグ
「うーん、やっぱり難しいですよ。保証人無しで学生さんってなると、大家さんもリスクがあるから嫌厭するんですよね。」
悠里は商店街にある全国展開の不動産屋で今日何度目になるか分からないやりとりに途方に暮れていた。
「家賃は奨学金とバイト代でかならずお支払いしますから…!!寮の改修工事が終わる半年だけでいいんです、どんな部屋でも構いません。」
必死に食い下がったらところで、次に来る答えは分かっている。今日一日だけで、いや今までの人生の中で何度だって繰り返されて来たことだ。
こういうところでも自分の性は不利になるのだ。
「ええと、櫻井悠里さん、でしたっけ。申し訳ない無いんですけれど、Ωでしょ?」
ほら、やっぱり。
「前にΩの方の仲介したんですけれどね、部屋を溜まり場にして朝までそういう声が聞こえてくるだとかでトラブルになったんですよ。Ωをなぜ紹介したんだって仲介した私たちの責任になりますからねえ。」
「寮に入って1年間今まで自分はそういうトラブルは起こしていません。もちろんこれからも気をつけます。それでもダメでしょうか。」
今までなるべくまわりに迷惑をかけないように、ひっそりと生きてきたつもりだ。迷惑をかけないよう、自分の存在が周囲に影響を及ぼさないよう、細心の注意を払ってきたつもりだ。
ただ、慎ましく1人で生きていきたいだけなのだ。誰にも頼らず、誰にも迷惑をかけず、自分1人で生きていく糧を得る術を身につけることだけが今のささやかな願いなのに。それだけなのに、ここでも自分のΩ性がそのささやかな願いを踏みにじるのか。
「Ωならねえ、誰かαに一緒に住まわせてもらったら1番良いと思いますよ。養ってもらえば一生安泰でしょう。」
αに身にこの身を差し出して取りすがって生きていけというのか。一度αに囚われると二度とΩは自由の身にはなれないのに。
世間のΩに対する目はそんなものだ。そんなの自分がよく知っているじゃないか。
「半年ですね?大丈夫でございますよ、西北学院さんとのお付き合いはよくありますから、そこの学生さんなら安心してご紹介させて頂きます。ああ、αなんですか?将来有望ですねえ。」
隣のブースにいたのはたまたま同じ寮のαの寮生で。彼は今からもこれから先も、悠里が努力しても手を伸ばしてもその手からすり抜けて行く普通の幸福を簡単に手にして生きて行くのだ。
「…すみません、お手数おかけしました。ありがとうございました。」
悠里には部屋を紹介する気が全くない不動産屋の担当者の男に、それでも礼を行って席を立つと、男は明らかにホッとしたような顔をした。彼はただトラブルの火種になりそうな客を回避しただけ、彼の仕事を全うしたまでの話。悠里の明日から住まいの問題など、ましてや悠里の傷ついた気持ちや明日からの生活に対する不安なんて、彼の仕事の範疇ではない。
店の外に出ると既に陽が落ちていて、まだ春とは名ばかりの冷たい空気がさらにきりりと鋭く尖って肌を刺した。
「あの、君。同じ寮の子だよね?一年生の。」
振り返ると先程の隣のブースのαの学生が店の軒下に立っていた。人間関係が深くなることを注意深く避けていた悠里にとっては、見知った顔ではあるが特別親しくも無い、おそらく同じ学年のα。
「君も部屋探してるんでしょ?寮の改修工事終わるまで、一緒にルームシェアしない?」
それは、同情や親切心で言ってくれているのかそれとも。
「Ωはαと一緒にいる方が自然だって言うし。何かと辛いんでしょ?1人じゃ。俺としても家賃を折半・・」
それは俺の窮状につけ込んでいいようにΩの味見をしたいだけだろう?
「すみません、でも流石に体売る気は無いんで。」
一言だけ言って、すぐに丸めたくなる背中を意地でもまっすぐに伸ばして振り返らずに歩き始めた。
店外にも漏れ出る不動産屋のCMソングが耳について不快だったが、やがて家路を急ぐ人々の雑踏と混ざり合って消えた。
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