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厚ぼったいぽってりとした丸いフォルムの茶色のティーポットから、それとは対照的な洗練された白磁のティーカップに透き通った飴色の紅茶を注ぎながら、直人は口元に僅かに笑みを浮かべている。
「バース以外にも部屋をなかなか貸してもらえない理由があるんだろ?下宿じゃないが、今はこいつらも住んでるんだ、1人ぐらい増えたって構わねえよ。」
「本当ですか!」
「俺はαだが、フェロモン不全の体質だからお前のヒートは効かない無いんだわ。お前のバースはここでは問題にならない。」
そう言って、3人の前にジャムとこっくりとしたクリームの添えられたスコーンの乗った皿をを置く。ミルクピッチャーだのシュガーポットだのテーブルの上に並ぶが、学費や生活費を奨学金やアルバイト代で賄う悠里にとってはカフェでのお茶は贅沢品で、俄かに緊張が強まった。
「なおのスコーン好きなんだよね。」
「ゆりちゃんも食べなよ。」
「え?ゆりちゃん?え、俺?」
なんだかいつの間にかフレンドリーな北斗によって男としては少し不本意な呼び名をつけられたようだが、それはとりあえず置いておくとして、出されたカップに口をつける。
驚いた。
今まで紅茶と言えばスーパーで売られているティーバックだったが、今口にした直人の入れた紅茶に比べると、あれは色の付いただけの苦いお湯だったのでは無いかと思える程だ。鼻に抜ける香りが清々しくて、渋味は決して苦くなく旨味に感じる。
はて、今まで食べたことがあるスコーンはコンビニで菓子パンとして売られていたものだ。こんな風に食べたことないがどうやって食べたらいいのかと逡巡したが、北斗が食べている姿を見て、ああそうやってジャムとクリームをこんもり乗せて食べるのかと真似をして頬張る。
「ね、美味しいでしょ。主役は絶対スコーンじゃなくてクリームだと思うわけ。むしろクリームだけ食べたい。」
「いや、それはスコーンじゃなくてクロテッドクリームが好きなだけじゃないの。」
なんて、あったかくて滑らかで美味しいんだろう。
「あ、こら僕のクリームまで取るんじゃないよ。」
「ふみさんは絶対クリームが先で後からジャムを上に乗せるけど、俺はクリーム溶けちゃうから絶対逆の方が美味しいと思うよ。」
「その話題はつぶあんかこしあんかぐらい不毛な争いになるからやめとこうね?」
なんで、懐かしく感じるんだだろう。今まで、食べたことは無いのに。
冷たいクリームとジャムを湯気を立てる温かいスコーンと同時に口に入れると、刹那的で贅沢な味わいなのに、乳臭い香りと水分も甘みも最低限の小麦そのままの風味は素朴だ。
ああ、このお菓子はお茶を楽しむためにこんなに優しくて素直で、でもお茶似負けないぐらいどっしりしているんだ。
「あ、こら、また僕のクリームを!」
「クリームが少なすぎるんだもん。」
「北斗、お前ちょっとクリームから離れろ、主役をついで扱いすんな。ふみも、北斗相手に騒ぐんじゃねえ。」
ここは、なんて素敵で、心安らぐ場所なんだろう。
時が止まったような洋館も、この3人の自然なやりとりも、素朴なお菓子も、香り高い紅茶も。
この人たちは、何気なくて、気も張ってなくて、きっといつも当たり前にこうやって3人で戯れあっている。でもきっと、付かず離れず、踏み込み過ぎないよう、相手を思いやって過ごしている。
悠里が今まで避けてきた、いや、そのバース性のために手に入れる前から諦めてきた、気取らなくて、穏やかな、相手を慮れる人間関係だ。
「え?!ごめんね、ゆりちゃんもクリームもっと欲しかった?」
「北斗、お前いい加減にクリームから離れろって…。」
自分もここに混ざりたいと思うのはおこがましい願いだろうか。
「ちょっと、大丈夫?北斗がうるさすぎてびっくりしちゃった?僕が後で叱っとくから。」
自分の存在が、この調和を見出してしまわないだろうか。
「紅茶が熱すぎたか?待ってろすぐにお冷やを…」
「…すみません、大丈夫です。」
それでも、ここで、彼等と一緒に過ごしてみたいと願っていいだろうか。
今までそんな人間関係作れたことは無いから、うまくやれるか分からないけれど、でも、
「じゃあ、なんでそんなに泣いてるのさ。」
そうか、心から願いをこう時も涙は出るものなのか。
ならば、神様。もし存在するのなら、どうか。
「すみません、俺をここに置いて下さい。お願いします。」
目の前の美丈夫が眼鏡の奥で優しく笑った。
「白梅荘へ、ようこそ。」
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