②御守りがわりのティーリーフビスケット

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 掃除道具を片付けてから屋内に戻ると、ティールームには直人の姿は無く、どうやら奥の厨房でにいるようだ。バターの濃厚で甘い匂いが漂ってくる。  いくつか並んだテーブルのうちの一つに、豪快に具が挟まれたサンドイッチと大きなマグカップに入った紅茶が準備されていた。売り物にするには形が悪いスコーンにボイルしたウインナーやゆで卵の日もあれば、大ぶりなおにぎりに具沢山の味噌汁の日もあり、その時は同じマグカップに紅茶のかわりにほうじ茶がなみなみ注がれている。    カラフルな鶏の絵柄の大ぶりなマグカップ。  以前、気に入ったカップを自分用に選べと言われ、数あるマグカップの中からそれを何気なく手に取った時の、直人の表情が忘れられない。    驚きと、悲しみと、懐かしさと、悔しさを全部内面に押し込んで、静かに笑っていた。  いつの間にか厨房から出て来た直人は隅のテーブルでノートパソコンを広げていた。これも最近知ったことなのだが、直人の本業は実は英文学の翻訳で、ティールームはもともとは時間に自由のきく本業の片手間ではじめたことだったらしい。翻訳した書籍には悠里も知る最近の英文学作品もあり、驚いたものだ。    1人で朝の時間をのんびりと味わっていると、いつの間にか急がないと一限の講義に間に合わない時間になっており、慌てて食器を下げ洗い物をすませると表に飛び出した。特待生としては遅刻は許されない。成績が奨学金の支給に関わるので、死活問題になるからだ。  入学時に中古で購入した自転車に跨ってさあ漕ぎ出そうかという時に後ろから声をかけられた。 「これ持ってっとけ。お前平気で飯抜くだろ。」 「いつもありがとう、なおさん。」 「ん、行ってこい。」  手渡されたのは店名が小さくプリントされたグラシン紙の紙袋。紙袋を手渡しその手で悠里の頭を一撫ですると、すぐに屋内に戻っていった。時たまこうやって、割れたビスケットやパウンドケーキのはし切れなんかを持たせてくれる。  今日のおやつが楽しみだなあ、どこで食べようかな、と紙袋を大事にリュックにしまってから、勢いよく自転車のペダルを漕ぎ出した。   「ねぇ、君、今どこにいんの?」  日も傾き始め人気の少なくなったキャンパス内のベンチ。今朝持たせてもらったビスケットを口に入れたところで、急に声をかけられた。  午後の最後の一コマがあるから、と大事に取っておいたのだが、突然休講になってしまったからだ。   「えっと、3号館と4号館の間の…。」 「違う、そうじゃない。君、今寮いないでしょ。あの時なかなか部屋探し困ってたみたいだったけど。」  どこかで見たことのある顔だと思ったが、思い出した。同じ寮にいた寮生だ。後ろに同じく寮生の友人が1人いる。確か、彼とよく一緒に連れ立っていたβだと記憶している。  あの日、悠里が偶然にも白梅荘にたどり着いた日。最後に訪れた不動産屋で悠里にルームシェアを提案して来たα。きっと親切心に見せかけたおためごかしで、多分きっと、Ωを体のいい性欲処理にしたかっただけだけの。  ああ、甘くて美味しい。そして紅茶の香りがする。今日のおやつはティーリーフビスケットだったらしい。中に練り込んである茶葉の清々しい香りがもやもやした気持ちをクリアにしてくれる。多分茶葉はアールグレイ、最近直人に教えてもらって、悠里も気に入っている。    「ねぇ、ちょっと聞いてる?」  ビスケットに夢中になって返事がおざなりになってしまったせいで、相手をイラつかせてしまったらしい。それは自分が悪いと謝りの言葉をいと言おうとしたが、その前に相手からの言葉で遮られた。    「君、ヒートのたびに甘いフェロモン出して誘ってたじゃん。他のαもたまんねぇって言ってたよ。」  「…そんなわけじゃ無いけど。」  「抑制剤、敢えて飲んでないとか?」    別に誘っていたわけじゃないよ。こっち(オメガ)だって好きにフェロモン出して無いし、ヒートになんかなりたく無いんだよ、そう言いたいけれど、言ったところで無駄なのは今までの経験上で分かっている。  今までだって何度だって同じことで蔑まれ、疎まれ、時には憐れまれてきた。そんな時には、何事も無かったかのように装って自然にやり過ごすことが出来るようになってもう長いけれど、いつも心の奥底では傷ついてきたように思う。      でも。  今日はあんまりやさぐれた気持ちにならない。    「壮太、流石に言い過ぎ。」  「だって、樹。君もそう思わない?」  そうそう、友達なら早く壮太くん止めてよ、と他人事のように状況をぼんやり静観することが出来る。   ビスケットの幸せな味に癒されるからだろうか。ホロホロと柔らかい口溶けや、さわやかな紅茶の香りがお菓子と紅茶を同時に味わっているようで、幸せの味そのものだからか。  それとも。  自分の帰りを暖かく受けいれてくれる場所があることの安心感を、ビスケットが暗示してくれるからだろうか。    「フェロモンが出るのは仕方のないことだろ、俺には全然分かんねーけどさ。」  「そうだね、誘惑される気持ちは樹には分かんないね。」 「誘惑される方が悪りーんだろ。」  矛先が悠里から外れたのは幸いだが、雲行きが怪しくなってきた。ゆっくりおやつを楽しみたかっただけなのに、とんだとばっちりだ。    流石にこれ以上関わるのは勘弁なので、どうやって逃げ出そうかなんて困っていた、その時だ。  背後から抱きしめられるのと、声をかけられるのが同時だった。  
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