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泣く女
「春蘭様、早く準備をなさいませんと。今夜も陛下のお召しがあるでしょうから」
春蘭に仕えることとなった侍女は、戸惑ってばかりの春蘭をよく支えてくれた。
「宮女たちが噂しておりますよ。後宮に入ってまもなく陛下に召されるとはなんと幸運な女性と」
(幸運な女……本当かしら)
一夜にして宮女から妃となった春蘭であったが、その心は深く沈んでいた。
「あ、あの。少しの間ひとりにして。考えたいことがあるの」
春蘭は侍女におずおずと指示を出すと、ようやくひとりになることができた。
誰もいなくなったことを確認すると、衣に隠していたお護りを取り出した。それは故郷にいる想い人から贈られたものだった。
「武松、もう会うことは許されないのね……」
春蘭はお護りを握り、故郷と恋人を想い、秘かに涙した。
後宮勤めの年季が開けたら故郷に戻り、想い人の武松と結婚するつもりだった。春蘭にとって後宮はあくまで働く場であり、妃になることなど考えていなかったのだ。
故郷では美人と評判だった春蘭だが、美女がひしめき合う後宮ではさして珍しくもない容姿だった。ゆえに自分が皇帝に見初められるとは想像もしていなかった。
♢
それは華やかな後宮で働くことにようやく慣れ始めたある夜のことだった。宦官のひとりが春蘭を迎えにやって来た。
「春蘭様、輿にお乗りください。陛下がお待ちです」
春蘭の目の前は真っ暗になった。
宦官たちが担いでいる赤い輿は、皇帝陛下の寝所に連れていく女を乗せる特別な乗り物だ。
「私は身分の低い、卑しい宮女でございます。陛下の御相手などとても……」
「春蘭様、これは陛下の命でございます。よもや逆らうおつもりですか?」
春蘭の背筋が凍りつく。皇帝陛下の命令には誰も逆らうことはできない。逆らえば春蘭も含め、一族郎党に反逆の意思ありとして罰せられるからだ。
春蘭には幼い弟が二人いた。父の命令ではあったが、可愛い弟たちのために後宮に働きに来た春蘭にとって、一族が罰せられることは絶対に阻止しなくてはいけなかった。
(逆らえば家族まで巻き込まれてしまう。ああ、これで私はもう二度と故郷には帰れないのだわ……)
春蘭はあふれ出る涙を袖で隠しながら、黙って輿に乗ることしかできなかった。
皇帝の妃となった女は、後宮から出ることは許されない。その生涯を皇帝陛下にのみ捧げるのだ。
陛下に見初められた春蘭も、妃となった瞬間に故郷へ帰ることも、想い人に会うことも許されない身となったのである。
春蘭は後宮で生きていく。それしか道はない。
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