黒薔薇令嬢は夢を見る

4/8
7人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
* * * 私は物心つく前から、伯爵令嬢に相応しいように様々なレッスンを受けさせられてきた。レッスンは年を経るごとに増えてゆき、ティータイムや食事のときでさえ背後には誰かがついていて、マナーを守れているか監視されているようだった。 その日々の緊張感。私は常に張り詰めていた。息をつくということを知らなかった。けれど、生れた家に従うことは令嬢としての責務だと思っていた。自由を求める感覚など麻痺していて、何かに反抗することなど考えたこともなく、唯々諾々と親に従っていた。 そんなとき、シャーロックが執事として来たのだ。シャーロックの父親は我が家の優秀な執事として長く働き、その祖父もまた同じで代々この家に尽くしていて信頼も厚かった。 シャーロックは淡々と、そして的確に仕事をこなして、お父様からすぐに認められた。 そんなシャーロックが、ある日の朝食のときにお父様に提言したのだ。 「旦那様、今日はお嬢様の気分転換に緑の豊かなところでお休みさせてはいかがでしょうか? お嬢様は日々のレッスンでお疲れも溜まっておられますでしょうし、時には息抜きも必要かと存じます」 気分転換。息抜き。求める気持ちのゆとりさえなかった言葉に私は驚いた。同時に、私は日々に疲れていたのだと自覚した。 お父様は少しだけ考えられたあと、「うむ、ローザもたまには外の空気を吸ってきてもいいだろう。シャーロック、付き人はお前に任せよう。くれぐれも危険のないように」と許してくださった。私は朝食を終えて着替えたあと、馬車にシャーロックと乗って、家の外から段々と変わりゆく景色に見いった。木々の緑の豊かさはなんと輝かしいのだろうと感動した。 一時間近く馬車に揺られただろうか、シャーロックが「お嬢様、到着いたしました」と告げて先に馬車を降り、私の手をとって恭しくエスコートした。降り立ったところは辺り一面のクローバー畑だった。 その緑の爽やかで甘い香り。開けた世界。こんなにも豊かで優しい世界があるのかと私は衝撃を受けた。しばし呆然と景色を眺めた。 それを見たシャーロックは、穏やかに微笑み、「このクローバーという草は三つ葉が普通ですが、なかには四つ葉もございます。それを見つけると幸福が訪れると申します」と教えてくれた。 「幸福? 私は恵まれた家に生まれたと思うのだけど……」 「お家は恵まれておいででしょう、ですが、それが幸福かは課されたことに追われる日々です、私には失礼ながらお嬢様が真に幸福か分かりかねます。いかがでしょうか? 新しい幸福を探してみては」 家に従うことのみを求められる執事として正しい言葉かはともかく、私には目から鱗だった。幸福というものについて考えたことなどなかったのだ。 美しいクローバー畑。無数のクローバー。この中から四つ葉を見つけることに、私はときめきを覚えた。 「シャーリィ、あなたの言うことは難しいけれど、私、四つ葉を探したいわ」 「はい、お嬢様。僭越ながら私もお手伝いいたしましょう」 私はクローバー畑にシャーロックと入り、シャーロックの真似をして身を屈めてクローバーを探した。砂漠のなかの砂金を探すようなものだとも言えるけれど、心が浮き立って、絶対に見つかると期待できた。 それから、どれだけの時間が経っただろうか? シャーロックが「お嬢様、そろそろお屋敷に戻られませんと旦那様が心配なさいます」と声をかけてきた。私はすっかり夢中になっていて、「あと少し待ってちょうだい、この辺りにあると思うの」と探し続けた。 そして、クローバーをかき分けたところで四つ葉を見つけたのだ。 「シャーリィ、あったわ!」 私はそれを摘み取り、跳ねるように立ち上がった。シャーロックはすぐ間近に控えていた。顔が近い。端整な顔立ちは貴族より麗しく、慎みの分だけ貴族より際立っていた。 「……シャーリィ、これは貴方のものよ」 「お嬢様がせっかく手ずから見つけられたクローバーを私ごときに?」 「だって……シャーリィが今日という幸福をくれたもの。私には、それで十分だわ」 クローバーを差し出す。シャーロックは恭しく受け取り、胸ポケットから何かを取り出して私に差し出した。 「──では、私からはこちらを」 それは、四つ葉のクローバーだった。 「シャーリィ、貴方も見つけていたの?」 「はい、──お嬢様の幸福をお祈りして」 私は、こんな風に誰かに思われたことが、かつてあっただろうか? 「幸福……シャーリィ、私幸福が分かったわ」 「それはようございました。この幸福はお嬢様と私だけで交換いたしましょう。ありがたき幸せ、心に刻みます、お嬢様」 シャーロックがクローバーにくちづける。その妖艶さに足元が揺らいだ。 「え、ええ……二人だけの幸福ね。私、今日を忘れないわ。ありがとう、シャーリィ」 「──お嬢様のお為でしたら、私はこの身を惜しみません。私こそありがとうございました、ローザ様」 帰りの馬車で、私は心地よい疲れに任せてまどろみ、膝にはクローバーがあった。 ──このときに、私はシャーロックへの心が決まってしまったのだ。ふわふわした幸福から、シャーロックを意識するようになり、魅入られた。 14才の多感な心は、坂道を転がる石のように一気にシャーロックへと向かっていった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!