ケンちゃんのパパ

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 お酒は飲めない。お酒の名前も知らない。飲むと気持ち悪くなって、吐いてしまうから飲めない。アルコールパッチテストをしたら、飲んではいけないと言われた。  マンションのお隣に、麻布でバーをやっているというイクメンパパがいる。子どもたちを保育園に連れて行ったり、買い物に行ったりする姿を見ている。私は彼を「ケンちゃんのパパ」と呼んでいる。先日彼の店の在り処を聞き出して、ようやく今夜やってきた。 「ああ、こんばんは。来てくださったんですね、ありがとうございます」 「こんばんは。来てしまいました」 「どうぞおかけください」  銀縁メガネに色白の肌、細い身体。あまりバーのマスターという感じがしない。どちらかといえば、学校の先生みたい。 「何になさいますか」  にっこりと笑って聞いてくれる。本当に優しい笑顔で、見るだけで癒される。 「あの、ごめんなさい。私、お酒飲めないんです」 「えっ、そうなんですか」 「でも来ちゃいました。好奇心で」 「好奇心で」 「ケンちゃんのパパが、バーで働いてる姿が見たくって」  ケンちゃんのパパは「あはは」と声を上げて笑った。かわいい笑顔だった。彼の声は、わりと高い。 「廊下やエレベータで会うときとは、ちょっと違いますよね」 「マンションですれ違う時は、ケンちゃんのパパですもんね」 「今もケンちゃんのパパであることは間違いないんですけどね」 「ケンちゃんとマリちゃんのパパですね」  ケンちゃんのパパは、つい数年前まではケンちゃんだけのパパだった。でも去年くらいから、マリちゃんのパパにもなった。それでも私にとっては彼はケンちゃんのパパで。  ケンちゃんのパパで、憧れの人だった。 「お酒お飲みになれないんでしたら、ノンアルコールカクテルでも」 「はい、すみません。本当にお酒のことわからないんです」 「要するにジュースですから。大丈夫ですよ」 「じゃあ、おまかせで」 「かしこまりました」  ケンちゃんのパパの白くて細い手が、いろんな飲み物の瓶らしきものを手に取って、カシャカシャと何かを作っている。何がなんだかわからない。私はお酒がわからない。カッコいいなと思うけれど、まったく理解できない。  ケンちゃんのパパは、あっという間にきれいなブルーの飲み物を作って、私の目の前にすいっと置いた。その指先は、とてもきれいで。 「どうぞ。いま即席で考えて作りました」 「すごく、きれいです」 「お酒は入ってないから、安心して飲んでください」 「ええと、このジュースのお名前は」 「そうだなあ……ケンちゃんのパパスペシャルとでも」  そう言って、ケンちゃんのパパはまた笑った。とても優しい目元で、私の心はほんのりとあたたかくなった。  いい人。すてきな人。ケンちゃんのパパ。ケンちゃんとマリちゃんのパパで、あのきれいな奥さんの夫。奥さんのこともよく知っている。とてもきれいな人。二人は学生時代のバンドで出会ったって聞いている。本当にきれいな人なの。知ってる。何度も話したことがあるから。 「いただきます」 「どうぞ、ごゆっくり」  ケンちゃんのパパは、私の三つ隣のお客さんのところへ行って、カクテルを作っている。私はきれいなブルーのノンアルコールカクテルを見つめて、そっと手を伸ばして、グラスを取った。 「……ちょっと苦い」  思わず呟いたら、ケンちゃんのパパがやってきた。 「少し苦いでしょ。苦めのグレープフルーツジュース使ったんですよ」 「グレープフルーツですか。結構苦いです」 「苦い初恋の思い出、という感じで」  無邪気な顔で、ケンちゃんのパパは笑う。  ねえ、それ、わかって言ってるよね。ケンちゃんのパパ。 「そっか、初恋の味ですね」 「カルピスじゃないですけどね」 「私、好きです、グレープフルーツ」  好きです。すごく。とっても。  ケンちゃんのパパは、優しかった。店に入ってから出るまで、ずっと私につきあってくれた。 「また来てくださいね。ノンアルコールカクテル、作りますよ」 「はい、ぜひ」 「また廊下でお目にかかりましょう」  優しいケンちゃんのパパ。好きって、言いたかった。言えるわけないのに。グレープフルーツジュースの苦みが、喉の奥に絡まって取れない。息が苦しくなるくらい、絡まっている。 「じゃあ、また来ます」 「お待ちしてますよ。ありがとうございました。お気をつけて」  私は店の外へ出て、大きく深呼吸した。金曜の夜だというのに、とても静かだった。夏の終わりの少し涼しい空気が、頬に当たって寂しい気分になった。タクシーが一台、私の顔を照らして走り去っていく。  さよなら、ケンちゃんのパパ。  私、明日、いなかへ帰るんだ。  もう二度と、会えない。 【完】
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