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 最近、職を失い、就活をしていた信吾は、徒でさえ俗物の集いだと軽蔑して嫌々参加していた町内会を恥ずかしくて出れなくなったので脱会した。  その後、就活に出かける際に近所の人間に会うと、必ずと言って良い程、冷笑されるのでその度に腹が立った。  つい先日も就活から帰って来て隣家の前を通る時、玄関前にいた家主の井神と会ったので仕方なく挨拶しようとすると、井神が流石に声には出さなかったものの口真似で馬鹿と言って来たので、かっとなって井神に突っかかろうとすると、井神が玄関の中に引っ込んでしまったということがあった。普段、この井神は誰に対しても腰が低くいい人で通っていただけに意外なことだった。恐らく自分に対し媚を売る必要性を感じなくなったから普段いい人を演じている所為で溜まったストレスを吐き出そうとしたのだろう。弱い立場になってみないと隠された人の本性は見えないものだと信吾は痛切に感じた。  その数日後も信吾の家の南側に隣接する地主の月極駐車場で明らかに威嚇するバイクの空ぶかし音が一再ならずするので信吾は地主の息子だと気づいて塀越しに、「うるせえ!迷惑だと思わんのか!」と怒鳴ったら音が止み、何も言い返して来なかったが、近所付き合いしなくなったからって嫌がらせや嫌味をすんじゃねえと蟠りが残った。  無言電話もワン切り電話もかかって来るし、こっちは関わらないように静かにしているのにちょっかいをかけて来るのはいつも俗物どもの方だと不満に思う信吾だったが、或る日、吉報が届いてやっと再就職が決まって一先ず落ち着いた。で、昼間、静かに部屋でドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいると、その部屋に犬走を隔てて隣接する井神家の庭から草刈り機のエンジン音が聞こえて来た。それが最初の内、律動的に一定の音で響いていたが、程なくバイクのエンジンを空ぶかしするようにブーンブーンと抑揚をつけて唸り出し、而も草を刈る音がしないので信吾はあの野郎と思って部屋の窓を開けると、思った通り井神の家主が草が生えていない庭で草刈り機を持って立っていた。だから信吾は、「おい!何してる!」と怒鳴ると、「こうして刈り終わりました」と井神がふざけた調子で言いながら刈る真似をしたものだから鬱勃たる憤懣が爆発し、ポケットに入れておいたピストルを取り出すや否やコッキングして両腕でしっかり持って蛇の生殺しにするべくまずは井神のどてっぱらに狙いを定めて発砲した。撃った瞬間、可成りの衝撃を受け、反動で支えきれなくなって両腕が跳ね上がったが、全く狙い通り弾は井神の臍から腹を貫き、その風穴からどす黒い血潮が飛沫を上げて勢いよく噴き出した。そして血塗れになりながら腹を押さえ、七転八倒してのたうち回る井神を信吾は暫く見て楽しんだ後、ざまあ見ろと叫ぶなり井神の脳天目掛けて発砲し、それも見事に命中して井神は一瞬、馬の嘶きみたいな悲鳴を上げたかと思うと、ぶっ倒れて事切れた。その時の硝煙の匂いが芳しく感じられた信吾は、堪らなく心地良かった。  それは束の間の事でやがて捨て鉢になって半狂乱になった信吾は、家を飛び出して銃声を聞きつけて家から出ていた近所の人間を片っ端から射殺して行った。いずれも信吾を馬鹿にしていた者だった。その数は締めて5人。つまり全て急所に命中した訳だ。その腕前は神がかっていて名手と言って然るべきもので隠れた才能が皮肉にも花開いたのであった。  その後、彼は当然の如く近所の人間に通報され、警察に逮捕され、連行され、取り調べを受け、ピストルをどう入手したのかと聞かれ、天から降って来たと答えるばかりなので精神鑑定を受けたが、思考は正常と認められた。で、ピストルの入手ルートは謎の儘、殺しの動機を聞かれた信吾は、どうせ訳を話しても同情してくれないし、縦しんば同情されたとしても正当に理解した上でしてくれないし、有罪が翻る筈がないと諦めつつ井神を始め近所の人間の嫌がらせや嫌味を説明した上で倫理的観点から見て殺すのが妥当と判断したの一点張りで通した。それもあってか、拘留中、世間の話題を攫った信吾は、裁判になり法廷で弁護側が被告人は犯行当時、心神喪失により責任能力がなかったと主張したが、検察側がそれを証明する医師のカルテがないと主張し、結局、6人殺したのは動かしがたい事実だし、信吾の言う嫌がらせや嫌味は証拠立てられたとしても法律に抵触しないし、法律は逆説的に言えば融通の利かない不法なものと言える所以から裁判官は問答無用とばかりに無差別殺人と見做し、死刑判決を下し、弁護士の控訴を棄却し、死刑を確定した。  死刑執行日、信吾は今際の際、思い残すことはなかったが、これで町民七名が死んだことになる。こうなるよう画策したのは、信吾の天分と境遇をエレキネシスによって見抜き、彼に白羽の矢を立てピストルを与えた、神は神でも死神であった。  
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