smashing! うみのはて こころこめて

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smashing! うみのはて こころこめて

龍一。あいつが帰ってきたのかと思った。 佐久間鬼丸獣医師と喜多村千弦動物看護士が働く佐久間イヌネコ病院。 その近隣に位置する商店街の外れにある銭湯・ウミノ湯。店主は羽海野真弓。ウミノ湯は昼過ぎから夜半までの営業。こぢんまりとしたその銭湯には、指圧マッサージやちょっとしたエステ、小さな食堂も入っている。もともとは職を無くし困っていた友人知人の為、一流の腕でも発揮する場がなければ、と銭湯の中を営業スペースとして提供するうちに、いつのまにか各方面でも高い評価を得るようになっていた。 羽海野がいつものように商店街役員の名入りの法被を着て、通りの「見回り」をしていた時。台湾料理を出す店の前にその男は立っていた。開くのを待っているのだろう、携帯を手に何やら話し込んでいる。長身痩躯、真っ黒な艶のある髪を無造作にまとめた後ろ姿。うわ足長えな。羽海野の視線を感じ取ったのか、いきなりその男が振り返った。 「ああ、すみませんこのお店、何時に開くのかなって思って」 「…楊さんとこ、もうすぐ開きますよ。このへんの人?」 「俺、この先の動物病院で…」 「ああ、院長とこの!新しい獣医さん?」 看護士なんですよ。ていうかお兄さん商店街の人?格好いいですね法被。優しく細められた切れ長の目、ますます「彼」を彷彿とさせた。似ていた。違うのはこの男の方がずっと若いということ。 「あとで鬼丸も来るんで、お時間あればご飯一緒しませんか?」 「…いいね。じゃあ、えっと…」 「俺、喜多村千弦っていいます。兄さんは?」 「羽海野真弓。ウミノ湯の番台にいんの」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 合流した佐久間鬼丸院長、そしてこの喜多村と一緒に、羽海野は台湾料理を堪能することに。マミたまウミノ湯はいいんですか?店長の楊にからかわれながら、昼間なのに大ジョッキまで注文している。 「今日日曜だし、あんたたちも呑んでけば。奢るから」 「ありがとう、マミたま」 「すみません、マミたま」 「誰がマミたまだ」 初対面から気が合うな、そう思っていたが、本来気難しい部類と自負する羽海野は、喜多村の持つ人懐こさと、佐久間の持つ穏やかな雰囲気がすっかり気に入ってしまっていた。 「へえ、ここ熱帯魚の水槽ある。見て鬼丸、クラゲクラゲ!」 「うわあ…あれはミズクラゲだな、クラゲはプランクトンの一種で…」 「…鬼丸、生き物の生態マニアなんだよ」 「博士、って感じだな」 訥々と解説を続ける佐久間の横で、優しく蕩けそうな顔で相槌を打つ喜多村。ああ、懐かしい顔だ。このあいだのメールには、得意そうに大きなマグロと一緒に撮った画像が添付されていた。海洋生物学教授で、何よりも「クラゲ」が大好きな、九十九龍一。最後にちゃんと姿を見たのは、いつだったか。 「…クラゲ、好きだったなあいつも」 羽海野の小さな呟きに、喜多村が小声で「いいひと?」とからかう。照れ笑いで返しながら羽海野は頷いた。テーブルの上で組んだ両手の内側、鈍く光る指輪を指先でなぞるように触れる。裏側に刻まれた文字は「Riu」。 向こうの人は「Ryu」の発音が難しいから、「Riu」って呼ばれてるんだ。リウ。あいつはそう零していた。短く半端な発音のその名前が、いつのまにか羽海野にとってまじないのように心の中に深く根を張っていて。 ふわふわと浮かぶクラゲは透き通っていて、水の色を映す。だけど水には同化しない。生きるという意思を持って、彼らはそこに存在している生物だからだ。昔、九十九の言った言葉が少しずつ、今頃になって羽海野の中で丸く象られ蘇る。 浮かんでは沈み、そして水の中で舞うのだ。ここで生きるために。 「会ったばっかだけど、色々聞きたいなマミたま」 「俺はそんな軽い男じゃないし」 「じゃあ、お風呂券買うから教えて下さいマミたま」 「院長はあれか、遣り手かこう見えて」 目の前の喜多村の笑顔。九十九との記憶が鮮やかに彩り、滞った時間が音を立てて動いた、ように思えた。たまには自分のほうからも連絡してみるか、ゲリラ的に。悪戯のように思いついた案にちょっと苦笑いしながらも、羽海野は嬉しそうに呟いた。 …そのうちな。今は、教えない。
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