時計を売りに

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時計を売りに

 江ノ島竜二がホームレスになってから、初めての冬がやってきた。  彼はガチガチと歯を鳴らして歩きながら、ひび割れた手に息をはぁっとかけて温まろうとしている。  すれ違う人々はウッと苦々しく顔を歪めて彼を避けるように歩く。  人から逃げるように背を丸めて路地裏に駆け込むその姿は、動物園から逃げ出してきた猿のように見えた。 「ちくしょう。日が暮れる前に用を済ませねぇと、寒くて死んじまう」  今はほつれてくしゃくしゃになってしまったが、薄汚いスーツも元々はオーダーメイドの高級ブランド品である。  これを作ったデザイナーが、今の状態を見たらどれだけ残念そうな顔をするか想像しただけで可哀想になってしまうくらいだ。 「東京に来てこんな寒い思いをするのは初めてだぜ」  かじかんだ手をポケットに突っ込もうとした時だ。枯れ枝のような細い手首には不釣り合いな大きさの腕時計が落ちた。 「おっと、いけねぇ」  竜二は慌てて時計を拾いあげる。  服の袖で丁寧に汚れを拭き取った。  鈍く光る銀色のベゼルを指でなぞって、皮肉っぽく眉尻を下げた。 「お前ともお別れだな」  時計をぎゅっと握ってポケットに入れると、気を取り直して、竜二はまた、トボトボと冷たい都会の路地裏を歩き出した。  しばらく歩いて彼がたどり着いたのはビルとビルの隙間に押しつぶされそうになって立っている質屋だった。  錆びたトタンが、風が吹くたびにうねって不愉快な音を鳴らす。 「河川敷のおっさんが言っていたのはこの店だな」  竜二は引き返すか否かしばし躊躇った。  炊き出しの列に並ばずに、日に日に痩せ細っていく若者を見かねたホームレスの老人が、この店に行けば当分の生活には困らないと教えてくれたのだ。 「こんな儲かってなさそうな店、二束三文で買い叩かれるんじゃ......」  疑心暗鬼にかられながらも、気持ち悪いくらいの空腹と寒さが竜二の思考を鈍らせる。  古い木製の引き戸を横に引くと、悲鳴みたいな音をあげて開いた。 「いらっしゃい」  店主らしき初老の男は人の良さそうなハの字の眉毛をピクピク動かして竜二を見た。  真っ白なシャツは小綺麗にアイロンがけされており、整った口髭とポマードで固めた白髪が上品な、小太り体型の男だった。  身なりに金をかけているようだが、商売の為の店は手入れする気がないのだろうか。  いや、そんな事は今更どうでもいい。  どうせ買い叩かれるのは変わらないんだから。 「売りたいものがあるんですが」 「ほう、それでどんなものを?」  竜二はポケットから時計を出すと、ガラス張りのカウンターに置いた。 「いくらで買っていただけますかね?」 「んむー、そんじょそこいらではお目にかかれない、なかなかの上物だね」  なるほど。  竜二はにやりと笑った。  この店主は物の相場なんかちっとも分かってないぼんくらの老ぼれって訳だ。  それをホームレス達に見透かされていい鴨にされているに違いない、と。 「それじゃあ・・・」 「ああ、あんたを買うよ」 「いくらもらえますか?」 「金なんかもらったってしょうがないだろう。あんたが商品なんだから」  藪から棒に、思っていたのと違う言葉が飛んできて、竜二は怪訝そうに店主を見た。 「へ?俺はこの時計を売りたいんだが」 「あんたを買えるならこの安物の時計もセットで買ってやろう。人身売買なんてヤクザな事を提案しているんじゃない。まあ、しばらくそこら辺に座って待っていりゃ分かるさ」  店主は読みかけの新聞紙をパサっと軽く張り直して、目を落とす。  よくよく見てみると、店主の読んでいる新聞紙の日付は年号が昭和だった。 「おいおい、爺さん、ボケちまってるのか?」 「あたしゃまだボケるような歳でもないよ。ああ……人間はボケるような歳なんだろうが、人間じゃないからね」  竜二が怪訝な顔で店主を見つめた。  いつの間にか外ではシトシトと雨が降り始めている。 「俺がホームレスだからと思ってからかっているのか?」 「いんや、真面目な話さ。こっちも商売なんでね」 「とてもそうは思えないがな」  凄んでみせると店主は手元のチェストから葉巻を出して、ジッポで火をつけた。 「猿は賢い割に気が短くて困る」  深く吸い込んだ煙を輪にして吐き出した。 「待ってりゃいいと言っているんだから、大人しく待ってりゃいいんだ」  何十にも重なった煙の輪の中に、最後の一息を吹きかけると輪が解け、散り散りになった煙が天井の小さな換気口に吸い込まれて消えた。  トタンに打ちつける雨音が強くなった。 「てめぇ……」  ワナワナと震える竜二の拳が、今にも皺だらけの顔を捉えようとした、その時だった。 「今回の仕入れはずいぶんと遅かったですね。勝山さん」  背後から、艶やかな女の声が聞こえた。  驚いて振り返る。  外は雨が降っているのに、女は一滴も濡れていなかった。 「洋子ちゃんは相変わらず仕事が早いな、待ってりゃ来るんだからもっとのんびりしていてもいいのに」 「勝山さんはそれで良くても私が困りますので納期はもっとキッチリと管理してください」  眉一つ動かさず淡々と言いながら、女は竜二の隣に歩み寄ってきた。  彼女はカウンターに置かれた時計を一瞥して、実に機械的な動きで竜二に向き直る。 「貴方は何を望みますか?」 「え?」 「貴方を購入するにあたって支払う対価、と言えば分かりますか?貴方はその身の自由以外なら、売買の対価として貴方の望むものを請求できる権利を有しています」  竜二は言葉を詰まらせ、目を泳がせた。  本当に自分が売られるなんて想像もしていなかった事もさることながら、目の前の女のおぞましい程の美しさに言葉を失ってしまったのだ。 「さあ、何ですか?」  彼女の鈴のような声が鼓膜を揺らす度に、鼓動が強く波打つ。  切長の凛とした目を見つめると、吸い込まれてしまうような体のふらつきを感じた。 「まだ、自分が置かれてる状況も分かってないんだ。急かしたって仕方がないよ」  霞んだ視界の中で、ふと顔を上げると、新聞紙の向こうには毛むくじゃらの塊が鎮座していた。 「ば、バケモノだ!」  竜二が腰を抜かして、売り物のカウチソファーに座り込むと、毛むくじゃらの塊は新聞紙を畳んで吸いかけの葉巻を灰皿に置いた。  それは小綺麗な服を纏っている、小太りの狸だった。  人程の大きさの狸は黒い耳を指で掻きながら、女に言う。 「こんな具合さ」  女は顔色を変えるでもなく、ゆっくりとカウンターから腕時計を手に取り眺める。  そしてカツカツと踵の細いハイヒールを鳴らして、放心している竜二に近付いた。 「速やかに理解する事を強要はしません。貴方は、雨風を凌げる棲家と、肉体の維持に充分な食事を得られない状況に置かれている事が推し量られます。まずは貴方が生命を維持する為に必要な物を私が提供します。報酬は後払いになってしまいますが、貴方の気持ちの整理がついたら、改めて請求をしていただくという形になりますが、よろしいですか?」  スッと女が長い足を床について身をかがめた。  そして竜二に腕時計を手渡し、優しく握らせる。  女の手はしっとりとしていて、とても温かかった。 「どうぞ、持っていてください。この時計は貴方の側にいる方が幸せなようです」 「あ、あんたは俺をどうするつもりなんだ?このバケモノはいったい何なんだ?」  ようやく声を出せるようになった竜二の口から、堰を切ったように疑問が流れ出した。 「貴方は当面、私の仕事を手伝ってもらいます。そして、勝山八左衛門さんは四国から上京して質屋を営む120歳の化け狸です」  女は竜二の目を見据えたまま言った。 「化け狸なんて空想の産物だろ!?」 「見ざる言わざる聞かざるとはよく言ったもんだ、猿はどんなに知恵をつけても事実を認めようとしない」  巨大な狸が黒々とした毛を逆立てて体を振るわせると、ワイシャツのボタンが弾けて飛んだ。  獣は耳まで裂けた口を開いて、鋭い歯から滴る涎をじゅるりと舐めた。  ぐいっと身を乗り出したその体重と爪の圧力に耐えられず、カウンターのガラスが割れて床に散らばる。  竜二はもつれる足をなんとか動かして、カウチの背もたれの向こう側に身を隠した。 「勝山さんが猿に対して良い感情を持っていないのは分かりますが、彼は私の仕事に必要なので食べないでくださいね」  微動だにしないまま、女は背後から殺気を放つ大狸に言った。  狸は鼻筋に皺を寄せ生温い息を吐いた。 「良かったねぇ、小猿の坊や、依頼主が洋子ちゃんでなけりゃあんたは今頃ミンチになってあたしの腹ん中だったよ」  獣臭がツンと竜二の鼻を刺激する。 「お、俺は猿じゃねぇよ!」 「人間も猿も一緒さ!忘れもしない!おっとぉとおっかぁは人間に皮を剥がれ、親を亡くした兄弟は山の猿どもに頭から食われたんだ!あたしはねぇ、猿を食うために東京なんて汚い街に出てきたんだ。生まれた山の猿はもう皆食っちまったからねぇ!」  ザワザワと狸の毛が波打って、瞳が赤く染まる。  風船が膨らむように胴体が膨らんで舌はどどめ色の蛇がうねるように竜二に向かって伸びてくる。  女はこの状況にあっても実に冷静で、灰皿に置かれた葉巻を手に取り、床に転がっていたジッポで火をつけてふかすと、ふうっと狸の顔に煙をかけた。  すると、凶悪に歪んでいた狸の表情が緩み、みるみる小さくなって、最後は子猫のようなサイズになって座椅子の上にぽよんと落ちた。  女は小さくなった狸を抱き抱えると、赤ん坊をあやすように背中をさすった。 「まだ御母様の形見が見つかっていないので、時々こうして発作を起こしてしまうのですが、これでも御父様の形見を見つけてからは10年に一度くらいまで頻度が落ちたんですよ。ご容赦ください」  女の腕の中で、目頭の白い毛がハの字眉毛のように伸びた丸い狸が、ピーピー鳴いてる。  竜二は体を強張らせながら、カウチの背もたれから少しだけ顔を覗かせて、女に尋ねた。 「あんた、一体何者なんだ?」 「申し遅れました。私は伏見洋子、訳あって身代わり屋という商売を営んでおります、齢1000歳の古狐です」  稲妻の閃光が強烈な轟音と共に室内を照らした。  逆光で洋子の影が長く伸びた。  尖った耳と9本に割れた尾を揺らした形をしていた。  竜二の目眩が一層激しくなる。  稲光が消えるよりも先に、竜二の意識はどこか遠い所へと行っていた。
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