追われる者

1/1
前へ
/8ページ
次へ

追われる者

 起床と共に、携帯電話のベルが鳴った。  朝日が差し込む窓辺のベットの中で、誰かがモゾモゾと動いた。  布団からぬっと白い手が伸びる。  その手は、携帯電話を掴んで、布団の中に引き摺り込む。  液晶画面に、泣き腫らしたであろう瞼と長い髪が映った。  その手の持ち主は布団の中で浅い呼吸を繰り返しながら、おずおずとホームボタンを押して通知を見る。  おはよう、ミサ。今日はお寝坊さんかな?早く僕に君の顔を見せてよ─── 「ストーカーだぁ?!」  洋子の運転する車の助手席で、食べていたサンドイッチの破片を散らしながら竜二は叫んだ。 「んなもん、警察の仕事だろうが!」 「警察が役に立たなかったから、私の所へ依頼が来たのです」  洋子は片手でハンドルを握りつつもう片方の手で竜二にティッシュペーパーを渡しながら言った。 「実際に被害が出ていなければ警察は動けませんし、狡猾な相手なのでまだ人物の特定が出来ていません」 「お役人ってのは、いつも肝心な所で頼りねえもんだな」  竜二はサンドイッチのカスをペーパーで拭き取りつつ、吐き捨てるように呟いた。 「で、なんで、コイツまで一緒なんだよ?」  竜二が親指で指す後部座席には、小さな牙を見せて唸る勝山狸がいた。 「勝山さんにも、ご協力願いたいからです、そして、貴方が逃げ出さないかどうか、念の為にお目付役として」 「廃人になるなんて言われて逃げ出す程馬鹿じゃねえよ!」  踏ん反り返って言ってはいるものの、洋子の言葉を信じたのは、あの奇妙な眩暈がもたらした畏怖からであった。  勝山からは、子狸になっても剥き出しにしてくる憎悪をひしひしと感じるが、洋子からは何も感じないのだ。  彼女が、そのビスクドールのような仮面の下にどんな感情を潜ませているのか、竜二には分からない。  だからこそ、恐れているのだ。 「さあ、着きましたよ」  洋子が車を停めたのは、赤茶色のレンガ風の外装が小洒落ているマンションの駐車場だった。  彼女は、長い黒髪を靡かせて車から降り、まるで何度もここに来ているかのような手慣れた手付きでオートロックを解除する。  勝山が齧り付いてくるのを離そうとする竜二が助手席でのたうち回っているのを尻目に、行きますよ、とだけ言って、洋子はハイヒールの音を響かせてマンションのエントランスから中へ入っていくのだった。  彼女に遅れを取りながら、齧り付いた勝山を腕に引っ提げたまま、竜二も後に続く。  洋子は時計を見て、静かに頷くように瞼を閉じると、エレベーターに乗りマンションの十階にある一番奥の部屋のインターホンを鳴らした。 「はい」  今にも消え入りそうなか細い声が、インターホン越しに聞こえてくる。 「お約束いたしました、洋子です」 「合言葉は」 「やっぱりキノコは舞茸だよね、よろしいでしょうか」  この状況であまりにも緊迫感のない合言葉を彼女が口にすれば、ガチャリと部屋の鍵が開いて、栗色の髪を揺蕩うままに下ろした女性が現れた。 「どうぞ」  彼女は視線を斜め下に逸らして、洋子達を迎え入れた。  白を基調とした配色で、整った玄関の奥には、段ボールで塞がれた窓と、薄暗い部屋がある。  栗色の髪の女性は、二人分の茶と、一匹分のミルクを用意すると、ベットの側に蹲って丸くなった。 「改めて、園田美咲と申します。すみません、よろしくお願いします」  彼女の声色には生気がなく、部屋の中には淀んだ空気が流れていた。  竜二は出された茶に手をつけていいものか迷っていたが、洋子は初めて竜二に会った時と同じ調子で、美咲の前に名刺を出す。 「此方こそ、改めまして、身代わり屋の洋子と申します。どうぞ、本件が園田様にとってご満足頂けるような終焉を迎えますまで、よろしくお願いいたします」  美咲はこくんと頷いたまま、涙目になり黙りこくってしまった。  洋子は、失礼、と断りを入れてから出された茶に口をつける。  そして、美咲の目線の先を察して、竜二を見た。 「これは私の助手の江ノ島竜二です。身元は私が証明できますので、どうぞご安心ください」 「俺じゃなくてさ、狸だろ、どう考えてもおかしいのは」 「狸さんはいいんです」 「いいのかよ!」  うっ、と溢れる涙を手の甲で拭いながら言う美咲に、竜二は思わずツッコミを入れた。 「男性が怖いんです、あれ以来、ごめんなさい」  堰を切ったように泣き出す美咲を前にして、竜二は困ったように頭をかいてから、まだ齧り付いている勝山の鼻を指先で弾いた。  勝山は離れない。  不慣れな助手の事など気にも留めない様子で、洋子は資料を広げる。 「以前、お伺いした園田様のご依頼を再確認させてください。園田様は現在、ストーカー被害を受けていらっしゃる、そして、そのストーカーが今後一切、園田様に関わらないようにして欲しい。この内容で間違いはありませんか?」 「はい。もう限界なんです。父と母の残した遺産があるので、お金なら幾らでも払います。このままじゃ、自由に外も歩けません」  美咲は嗚咽を漏らし、途切れ途切れになる言葉を繋げては、はっきりとそう言った。  竜二は顎に手を当てて、美咲の泣き崩れる姿を見ながら、恐る恐る尋ねる。 「その、なんだ、心当たりとかないのか?元カレとか、よく会ってたやつとか」 「全く身に覚えがありません。どこの誰かも分からないんです。そんな人に二十四時間監視されているんです。気持ち悪くて」  洋子は、過呼吸になりそうな美咲の背中をそっと摩った。 「大丈夫ですよ。園田様はこれから私が指示する事に従って頂ければ良いのです」  ただし、と洋子は少し声色を変えて念を押すように言う。 「これから行う事は、決して他言しないようお願い致します」  美咲はぶんぶんと何度も首を縦に振った。 「それでは、勝山さん、お願い致します」  洋子がそう言うと、竜二の腕に齧り付いていた勝山は煙になって、目の前にいる美咲と瓜二つの人間になった。 「女の姿は慣れないねぇ」  竜二の分の茶をぐいっと飲み干して勝山は言う。 「子猿の坊やはそっちのミルクでも舐めときな」  勿論、嫌味も忘れない。  事情を知ってる竜二がわなわなと震えている向かいでは、美咲が泣くのも忘れて口をぽかんと開けていた。 「あの、その、身代わりってそういう?」 「いいえ、これは犯人の目を欺く為の偽装工作の序盤です」 「思うんだけどさ、えーと、園田さん?もっと驚いていいと思うんだ」 「黙らっしゃい」  ぺちんと、美咲の姿をした勝山が竜二の頬を叩いた。  美咲本人は、縮こまったままボソッと呟く。 「私、てっきり、洋子さんが私の身代わりになってくださるのかと思って、罪悪感があったんです。まさか、その、こういう形とは思わなくて」 「ご安心ください。全て手配してありますから。江ノ島君、貴方はこの後は私達とは別行動です」 「えっ、俺?!」  素っ頓狂な声をあげて竜二が聞き返す。  洋子は手元の資料にそれぞれ、竜二と美咲に対しての指示を書いた。  それから、態とらしく言ってみせる。 「そうですか、成程、それでは、ご期待に添えないかもしれませんね。私達にできる事はないかもしれませんが、お話を聞く事くらいでしたら、お付き合いできます。どうでしょう、園田様、この後一緒にカフェにでも行きませんか?」 「はい」  美咲がか細い声で言った。  竜二は黙ったまま洋子を見たが、彼女の横顔からは、その意図する先を計り知る事は出来なかった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加